どうも、太陽です。
人はなぜ他者に影響されるのか。洗脳は本当に存在するのか。宗教やコミュニティ、発信者と受け手の関係をめぐる問いは、時に誤解や極論を呼びやすい。
メンタリストDaiGoさんの動画をきっかけに交わされた議論を辿ると、「洗脳」という言葉では説明できない、人間の行動や選択の本質が見えてくる。
メンタリストDaiGoさんの動画のコメントに「友達に話したらDaiGoさんに洗脳されるなよ」といった指摘が寄せられた。これに対して彼は明確に反論している。
結論から言えば、洗脳は不可能だという。仮に本当に洗脳が可能であれば、有能な科学者が捕虜を洗脳してスパイに仕立てるはずだが、研究の結果「無理」だとわかっている。
薬物を使えば部分的に可能性はあるが、精神がヘロヘロになってしまい実用にはならない。
統一教会のような「洗脳集団」と言われる組織ですら、信者の平均在籍期間は2年ほどにすぎない。本当に洗脳できるならずっと離脱しないはずだが、現実はそうなっていない。
DaiGoさんが運営するDラボの解約率は2%程度であり、むしろ会員数は増加している。これをもって「洗脳的」だと皮肉ることはできても、実際には会員の多くが知的好奇心の強い人で、内容を盲目的に鵜呑みにするのではなく、割合的に信じられる部分を取捨選択しているにすぎない。
北朝鮮の支配も洗脳ではなく、逆らえば殺されるという恐怖によるものだ。
つまり、人がコミュニティに居続ける理由は、恐怖、立場、損得、好意、娯楽、金銭、恩義などの複合的な要素で説明できる。
宗教の最重要機能はコミュニティにある。孤独な人は拠り所を求め、お布施を渡してその場に居続ける権利を得る。
Dラボは宗教ではなく「知識のNetflix」であり、ファンビジネスではなく役立つ情報サービスだからこそ、解約率が低い。ここに「洗脳」の要素は存在しない。
「あなたの周りの5人の平均があなた」という言葉もある。これは性格や自己コントロール力など、年収や健康に直結する要素に影響する。
BIG5で性格がかけ離れた人とは相性が悪い。肥満や喫煙といった自己コントロールの弱さは周囲に感染する。一緒にいる人間と波長が合い、夫婦が似てくるのもこの「感染」のせいだ。
だからこそ、孤独を避けるために悪影響を与える人間とつるむのは悪手だ。しかし孤独そのものも、1日タバコ15本に相当するか、それ以上に健康に悪いとされている。
したがって、適度にコミュニケーション力をつけて、Gravityのような場で交流するのも重要になる。
近年のDaiGoさんの動画は「SOUND ONLY」で映像を流していないが、Dラボ会員数には影響がほとんどない。これは役立つ情報サービスであり、ファンビジネスではない証拠だ。炎上しても会員が減らなかったのも同じ理由である。
一方、ひろゆき氏はYouTubeを基盤にしており、KPIは視聴者数やスパチャ。スパチャをする人は表情や反応を見たいという動機があるかもしれない。
美女が容姿を売りにしている動画であれば、映像がなければ視聴者は減るだろう。しかし知識系・情報系コンテンツは作業BGMとして聞けるため、映像は不要だ。実際、僕自身もひろゆき氏の動画を画面を見ずに音声だけで聴いている。
また、DaiGoさんがAI音声ではなくライブ配信しているのは「生き証拠」として自らの能力を示す意味がある。人はリアルに能力の高さを感じられるからこそ「真似しよう」となる。
もし同じ内容をAI合成音声で流したとして、果たして会員が増えたかは疑わしい。AIによる量産は容易になったが、独自性やオリジナル要素があるからこそ注目される。
DaiGoさんが次々と新しい試み(AI音楽導入、アーカイブなし放送、スパチャ廃止、SOUND ONLY放送など)を実施しているのも、生き証拠として存在感を示しているからだ。
世の中には常に「何を言うのか」と「誰が言うのか」という問題がある。多くの人は発言の内容そのもの以上に、その言葉を発している人間の立場や背景、あるいはポジショントークを重視してしまう。
人間は完全に内容だけで判断できるようには作られていない。だからこそ「生き証拠」、つまりその人が実際に体現してきた経験や実績には大きな説得力がある。生き証拠が語るからこそ言葉に価値が生まれるのだ。
しかし、それも万能ではない。説得力を持てる分野は限定される。たとえば大谷選手のメンタルや野球技能は世界一で信頼に値するが、金銭管理に関してはそうではない。
つまり、ある分野では尊敬や信頼を寄せられても、別の分野では説得力がないのである。
このことは極限状況に置かれた人間に対しても当てはまる。本当にどん底でリソースが乏しい環境に陥った人がいた場合、その立場を経験していない人のアドバイスは、どんなに正しくても心に響かないだろう。
たとえば「復讐は意味がない」という言葉がある。理屈では理解できても、大切な身内を殺された人が本当にそう思えるかどうかは別問題だ。その境地に立った人にしか理解できない領域が確かに存在する。
同じように、病気を抱えた人や発達障害を持つ人にしかわからない世界がある。それは健康な人間には一生理解不能であり、分かち合うこともできないのだ。
健康でリソースに余裕があるときは人は強気になれるが、病気や困難によってリソースが少なくなれば弱気になる。そこから復活できるかどうかは個人差である。
宗教に依存してしまう人も、この延長線上にある。宗教にハマる人は、頭が弱いからというよりも、相当に困難な状況に追い込まれているのだろう。その弱さは理解できる。しかし理解と許容は別物だ。
他人に迷惑をかけず、身分相応に生きているならまだ良い。だが宗教的な普及活動を行い、攻撃的になれば、大迷惑以外の何物でもない。
僕自身、ダイエットの経験から「弱さ」を身をもって知った。過去に僕を嘲笑していた人たちは、今では僕より太っている。体重管理は油断すればすぐにリバウンドする。ダイエットは本当に甘いものではない。
筋トレや週に数回の40分以上の散歩、間食制限など、できる限りのことを実行しても、減量どころか維持すら容易ではない。だからこそ僕は痩せた今でも、安易に「デブ批判」をする気にはならない。
痩せている方が健康に良いとは思うが、それは厳しい苦難の道だからだ。
また、生活の中の家事も人の時間を大きく奪う。僕は料理を一日二回、週五回は手伝っているが、それだけで可処分時間は大きく減った。料理中は瞑想のような効果があり、NEATの運動にもなるので有用ではあるが、それでも面倒に感じることはある。
自炊をしなければ食べられない人は、どれほど面倒でも強制的にやるしかない。さらに掃除や洗濯、役所の用事などが加われば、可処分時間はますます削られる。今は親が週二回、車で買い出しをしているが、いずれは自分で自転車で行くことになるだろう。その時はさらに時間が減る。
通勤もまた多くの人にとって大きな消耗だ。往復で1時間半以上かかる人も少なくない。駅までの徒歩や自転車移動も負担である。そこに仕事による問題解決やトラブル対応が重なれば、創造的な活動や勉強に使える時間は残らない。
仕事が終われば家事や料理でさらに忙殺される。人生のラットレースから逃れる時間やチャンスがいかに限られているかがわかるだろう。
僕はそうした人々の気持ちを理解できるし、想像もできる。しかし、だからといってすべての人に共感し、同情し、助けることは不可能だ。共感できる範囲は必然的に身内や身近な人間に限られる。
僕自身、共感力が強すぎて分かりすぎてしまうがゆえに、意図的に「鈍感さ」を身につけている。精神科医が患者に完全に共感したら自分が壊れるのと同じで、精神科医は壁やシールドを張って自らを守っている。それと同じように僕もシールドを使っているのだ。
敏感な人はSNSの殺伐としたニュースに触れない方がいい。僕は意図的に共感をオフにしながら観察している。なるべく有用な情報を集めつつ、共感フィルターをシャットダウンしてSNSを利用している。
これは単なる冷淡さではなく、自分を壊さずに情報を取り込み、現実と折り合いをつけていくためのテクニックである。
結局のところ、人間を突き動かすのは「洗脳」ではなく、恐怖や損得、好意や役立ち、そして孤独を埋めたいという切実な欲求だ。
だからこそ僕たちは、誰と関わり、どんな情報に触れ、どのように自分を守るかを意識的に選び取る必要がある。
その選択の積み重ねこそが、人生の質を決定していくのである。