どうも、太陽です。
世の中には、やたらと感情に重きを置く“感情派”の人たちがいる。彼らと会話をするときは、いちいち「もしかしたら気分を害するかもしれませんが」といった前置きやクッション言葉を挟まなければならない。
率直に言えば、これは非常に面倒だ。僕はそうした過剰な配慮をわざわざしない。結果として、そういう人たちには嫌われ、関係が終わることも多い。
しかし、それで構わないと思っている。なぜなら、少し率直な物言いでメンタルが不安定になるような人と、長期的に関わる気はないからだ。
僕にとって、率直な言動とはリトマス試験紙のようなものだ。相性を測るための道具である。僕の率直さに耐えられない人とは、いずれどこかで衝突する。だから最初から、取り繕ってまで関係を維持する必要はない。
仮に僕が配慮を重ね、相手に気に入られたとしても、その後も同じ対応をし続けなければならず、結局は疲れて破綻する。そういう相手とは、最初から距離を取るのが最も合理的だ。
たとえば、Gravityで「挨拶必須」と書かれているルームを見かけたら、僕は即座に抜ける。挨拶を義務化している人たちは、そうした秩序や形式を重んじるタイプであり、それは僕にとって“相性が悪いサイン”だからだ。
僕は挨拶を強要されるよりも、自主的に選びたい。見学のつもりでルームを覗いた段階で「挨拶必須」と書かれていると、それだけで萎える。礼儀を形式として強制する文化には馴染めない。
人間関係で厄介なのは、相手の「地雷」がどこにあるのかを見極めることだ。だが、これは非常に難しい。僕が関係を断つときの基準は、主に二つある。
ひとつは「僕を便利な道具としてしか見ていない」と感じたとき。もうひとつは「内心で見下されている」と感じたとき。
この二つの兆候を察知した瞬間、僕は静かに距離を置く。たとえ表面的には友好的でも、裏で舐められている関係はすぐに腐る。
ビジネス関係なら損得のバランスが明確で、GIVE&TAKEの関係であれば成立する。だが、僕だけが一方的にGIVEしている状態が続き、相手がそれを当然と思っていると気づいたとき、その関係は終わりだ。
内心で見下している相手にも同様だ。尊敬も尊重も欠けた関係に意味はない。僕はそういう相手と縁を切る。過小評価してくる相手や、舐めた態度を取る人間とも関わらない。
なぜなら、人は誰もが見えない能力を秘めており、それを見抜けない人間は短絡的で愚かだからだ。ヤクザ相手に舐めた態度を取らないのと同じで、誰に対しても礼を欠いてはいけない。
だからこそ、僕は人を評価するときに時間をかける。最初は相手を信じて接するが、徐々に減点方式で判断していく。まるでベイズ統計のように、情報が増えるごとに信頼を調整する。
相手の潜在的な能力を見極めるまで、即断しない。僕自身、他人を一方的に“便利屋”扱いするようなことはしない。GIVE&TAKEを意識して関わる。それは、僕自身がそう扱われることを嫌うからだ。
過小評価する人間は、人の成長曲線を理解していない。投資家としても失格だ。本物の投資家なら、見込みがないと思った相手にはそっと離れるだけで、わざわざ「お前はダメだ」と伝えるような愚は犯さない。
なぜなら、それを伝えることで自らのリスクを増やすからだ。どんな人間関係でも下剋上は起こり得る。過小評価していた相手が後に成功すれば、今度は自分が冷や飯を食うことになる。だから、賢い人ほど軽率に他人を見下さない。
また、ASDやADHD、HSPなどを最初からプロフィールに書いている人も要注意だ。多くの場合、それは「私に配慮してね」というサインであり、結果的に“地雷”になることが多い。
僕自身もASD気味であり、HSPやPTSDの傾向があるが、あえてプロフィールには書かない。誤解されることもあるが、それは仕方がないと割り切っている。むしろ「病気も能力のうち」だと考えている。
人間関係は、それを含めて成立するものだ。相手に「配慮してもらう」前提では、長く続かない。
僕はGravityを利用するときも、心を整えてから参加する。相手に過剰な気遣いをさせたくないし、互いに健全な距離を保つほうが長続きする。体調管理やパフォーマンスの維持は仕事のうちであり、それが崩れた状態で配慮を求めるのは不自然だ。
Gravityはプライベート空間だから多少の不調は許されるが、仕事の現場では通用しない。特に男の場合、「メンタルが不安定だから配慮してね」という言葉にニーズはない。社会では結果で示すしかない。
結局、病気も体調もメンタルも「実力の一部」である。環境もまた、実力の一部と言える。ただし、環境に恵まれた人がそれを指摘すると反発を招く。
たとえば、真夏に冷房の効いた部屋で暮らす人が、クーラーもない生活保護受給者に「環境も努力で変えられる」と言っても、納得は得られない。むしろ敵意を向けられるだけだ。
同じ構図は他にもある。営業経験のない僕が、営業マンの知人に「こうすれば売上が上がる」と本で読んだ知識を元に助言しても、「あなたに何がわかる?」と反発される。経験をしていない者の助言は、どうしても軽く響く。
芸能人やYouTuberを「楽な商売だ」と言う人も同じだ。実際に経験して苦労した人からすれば、無理解で浅はかに聞こえる。病気も、体調も、メンタルも、環境もすべて実力のうちだが、それを持つ人が語ると、持たざる者には響かない。
本当に響く言葉とは、過去に同じ苦労を味わい、それを乗り越えた人の言葉だ。だが、そこには皮肉な矛盾がある。乗り越えた人ほど、その苦しみを知っているからこそ、軽々しく他人に説教できなくなる。
たとえば、ダイエットの大変さを体験した人は、痩せた後も「デブは痩せろ」とは言えない。それがどれほどしんどいかを知っているからだ。
イケメンに「人は外見じゃない」と言われても、東大卒に「人は学歴じゃない」と言われても、金持ちに「人は金じゃない」と言われても、それが真実だとしても、持たざる者には皮肉に聞こえる。
一方で、ブサメンやFラン卒、貧乏な人が「人は外見じゃない」「人は学歴じゃない」「人は金じゃない」と語っても、説得力は弱い。ただし、そうした人たちが実際に幸福そうに生きていたり、成功しているなら、その言葉には本物の重みがある。結果で示しているからだ。
結局のところ、人は「何を言うか」より「誰が言うか」を重視する。言葉の内容よりも、発言者のリソースや立場を無意識に評価している。つまり、世の中は常にポジショントークで動いている。だからこそ、誰の言葉を信じ、誰を参考にするかが重要になる。
僕が思うに、リソースは人それぞれ異なる。ゆえに、最適解も人によって違う。リソースが似ている人を参考にするのが最も現実的だ。貧しい人なら、貧しくても幸福に生きている人、もしくはそこから這い上がった人を参考にすべきだ。
ブサメンなら、同じ立場から成功した人。逆境の中にいるなら、同じ逆境を乗り越えた人を見本にすればいい。彼らの言葉には「体験に裏打ちされた実践知」がある。生きたノウハウが詰まっている。
どん底期を生き抜くには、僕の経験上、瞑想・没頭・リラックス・運動・筋トレ・節約・自然との接触が有効だ。
逆境期は余計な思考を減らし、身体を整えることでしか立ち直れない。
ただし、リソースの違いすぎる“遠い成功者”を参考にするのは危険だ。特に、どん底の人に近づいてくる成功者は要注意だ。彼らが無償で助けてくれるはずがない。多くは投資目的か、詐欺である。有能なら安く人を使って成長の果実を回収するか、詐欺なら金を奪うだけだ。
金持ちが貧乏人に近づくとき、その動機を疑うべきだ。短期的に気分は良くなるかもしれないが、長期的な支援の動機は希薄だ。彼らは人を選ぶのにシビアで、結果を出せる者にしか時間を割かない。
だから、能力やリソースの格差が大きい相手とは、最初から対等な関係にはなり得ない。成功者の期待に応えられなければ、ただの駒として使い捨てられる。
大谷翔平選手がもし「多くの人も僕のようになれる」と言ったとしても、多くの人は「無理だ」と感じるだろう。
なぜなら、彼の成功の大部分は環境と才能によるものであり、努力の割合は限られているからだ。(この発言を大谷選手が心底言ったとしたら、の仮定である)
本当に努力で成功した人ほど、その苦しさを知っているため、軽々しく「自分のようになれる」とは言えない。
(もしくは苦労や努力とすら思っておらず、楽しめており、他人に気軽に言ったと仮定したら、悪い意味で鈍感になっていると言える)
つまり、「努力すれば僕のようになれる」と気軽に言う人ほど、才能と環境に恵まれ、苦労の度合いが低い証拠でもある。
僕自身、ダイエットで相当な苦労を経験した。今でも現状維持のために悪戦苦闘している。この体験があるからこそ、他人に「ダイエットなんて簡単だよ」とは言えない。
むしろ、気軽にそう言える人は、努力よりも才能や環境、あるいは楽しむ力に恵まれた人なのだろう。
要するに、人はそれぞれ異なるリソースを持ち、異なる現実を生きている。だからこそ、自分と似た条件で戦っている人を見つけ、学び、参考にすることが最も有効だ。
感情派の時代において、率直さと相性で人間関係を選び、自分のリソースに即した生き方を貫く──それが、疲弊せずに生き抜くための最も現実的な戦略である。