どうも、太陽です。
私は文系的な文章を苦手としています。理由は単純で、比喩や感情表現が多すぎると、情報そのものが見えにくくなり、正確な理解を妨げるからです。
一方で、理系的な文章は味気ないと感じられるものの、事実と構造が明確で、私にとっては読みやすく、思考の負荷も少ない。
この文章では、文系文体と理系文体の違いを踏まえながら、なぜ私が理系文体を好むのか、その理由を整理していきます。
https://brutus.jp/hiccorohee_048
【 この文章は「あなたになら話したい。」というタイトルのブログエッセイです。文系的な文章(文体)という印象がありますが、どういうところにそのように感じてしまう特徴があるのか?分析してください。また、これを理系的な文体(シンプルで論理的で簡素な文体)に変えるならどうなりますか?書いてください 】
最初に「なぜ文系っぽく感じるのか」の分析、そのあとに理系的文体への全文書き換えを出します。
1. なぜ「文系的な文章」に感じるのか?どこがそうさせているのか
ざっくりいうと、このエッセイは
感情・比喩・余白(含み)で読ませるタイプの文
になっていて、情報より「心の動き」優先だから、強く文系的に感じられます。もう少し細かく特徴を分解します。
① 感情の描写が構造の中心にある
- 「嬉しくて少し泣きそうにさえなっていた」
- 「お尻の辺りから喜びがぐわっと広がって」
- 「やっぱり、泣きたくなった」
出来事そのものよりも、「そのときどう感じたか」が主役になっていて、
論理の流れよりも感情の流れで文章が進む、という構造です。
② 抽象語・価値判断・倫理観が多い
- 「秘匿性の倫理観」
- 「プライバシーというものを軽んじること、それがやや下品な行為」
- 「人間としてのあわれさ」
事実だけでなく、「それをどう評価するか」「どう感じるか」がたくさん出てきます。
これは理系文体が好む「記述」と違って、価値観・美意識の表明が中心になっている。
③ 比喩・言い回しが詩的
- 「他者の情報をるらるらと歌うように喋ってしまう人」
- 「自ら風呂敷を広げて嫌悪の粒を収集する」
- 「お尻の辺りから喜びがぐわっと広がって」
- 「世界じゃこれを愛と呼ぶのでしょうか」
事実をそのまま説明するのではなく、
比喩(メタファー)でニュアンスごと描くので、文学的・エッセイ的な印象が強くなります。
④ 一文が長く、感情に合わせて「息継ぎ」するリズム
- 句読点を多用して、感情の高まりや揺れに合わせてリズムをつくっている
- 「〜、〜、〜、〜。」と連ねることで、心のぐるぐる感や迷いも一緒に表現している
これは**「読みやすさ」より「リズムと余韻」重視**の書き方で、理系的な「短く切る文」とは真逆の方向です。
⑤ 主観の連続・内面独白の形式
全体がほぼ、
- 「私はこう感じる」
- 「私はこう思ってしまう」
- 「こういう人が多くて、私はそれをこう捉える」
という**内面の独白(モノローグ)**で構成されています。
事実報告というより「心の実況」で、これも文系エッセイっぽさの大きな要因です。
⑥ 断定しすぎず、わざと「ぼかす」「揺らす」
- 「〜な気がしてしまう」
- 「〜なのではないかと思わせてくれていること」
- 「〜だろうか」
- 「やや愛めいているだろうか」
論理的な結論を一つに決めるのではなく、揺れたまま残しておく。
これは理系文体の「結論をはっきりさせる」とは真逆で、「余白を読ませる」文学的なやり方です。
2. 理系的な文体(シンプル・論理的・簡素)に変えるとどうなるか
ここからは、同じ内容をできるだけ保ちつつ、
- 文を短く
- 比喩・感傷を削り
- 原因と結果を整理し
- 主観を「事実+判断」に分解
する形で書き直します。
※あくまで「理系的な文体のサンプル」としてなので、あえて味気なく・説明的寄りにしています。
◆ 理系的文体バージョン
仕事の合間に少し時間ができたので、銀座にボールペンを買いに行った。涼しい秋晴れで、日中に自由に外を歩くのは久しぶりだった。そのため、街をゆっくり歩けること自体に強い喜びを感じた。
私は自分のことをあまり人に話したくない。生活が忙しいと説明すると、それは自分が「売れている」とアピールしているように受け取られる可能性がある。仕事の内容を具体的に話せば、「テレビや芸能界」の内側の話をしているようにも見える。それが不快というわけではないが、自分からそういう話題を提供することに抵抗がある。
交友関係について話すと、「人脈」の自慢のように見える危険がある。好きなウイスキーの銘柄を挙げるだけでも、「その価格帯を買える経済状況」を暗に示してしまうように感じる。このように、どの領域の話題も、別の意味に変換されやすいと感じている。
私が経験した出来事は、言葉にした時点で相手の解釈に委ねられる。その過程で意味のずれが生じることは避けられない。これはコミュニケーション全般における構造的な問題である。その結果として、余計な一言を言われて不快になることもあるし、「そういうつもりではない」と説明し直すことも発生する。それらが面倒だと感じるので、そもそも自己開示をしたくないという結論になりやすい。
「今日はハードで疲れた」といった単純な弱音でさえ、相手によっては「忙しさ自慢」と受け取られる可能性がある。相手がこちらに好意を持っている男性であれば、その人のプライドを刺激することもある。その場合、相手の自信を無駄に削るか、逆に張り合われるかの反応をされることが多い。そのどちらも、私にとっては不要なストレスである。したがって、自己開示は基本的に避けたい。リスクに対して得るものが少ないと判断している。
また、自己開示に関する考え方や、他人の情報をどこまで話してよいかという「秘匿性の基準」は、人によって大きく異なる。悪意がなくても、他人の情報を軽い話題として楽しそうに喋る人は多い。他者のプライバシーを重視するかどうか、どこで線を引くかという感覚の違いがある。自覚的であれ無自覚であれ、プライバシーを軽視する行為を、私は少し下品だと感じる。また、「知っている」という事実に優越感を持つような態度には、人間的な浅さも見える。私は他人のことをあまり嫌いになりたくないので、自分から情報を差し出し、相手への嫌悪感を増やす要因を増やす必要はないと考えている。
贔屓にしている文房具店でボールペンを一本購入した。そのまま喫茶店に入り、ノートに試し書きをしたところ、書き心地が非常によかった。そのとき、強い喜びを感じた。そこで初めて、この出来事を誰かに話したいと思っている自分に気づいた。
こうした些細な出来事を「話したい」と思えること、そして「話したいと思える相手がいること」は、人間関係における信頼や安心感の指標だと感じる。今日ボールペンを買ったという事実が、自分にとってどれほどの喜びだったかを伝えたいと思える相手がいる。その人は、私がボールペンを買ったことすら他人に漏らさないだろうと予測できる。そのような信頼感は、一般的に「愛」と呼ばれる感情に近いのではないかと感じ、山口さんにそれを確認してみたくなる。
ボールペンを買ったことなど、誰にも言いたくないと感じる人もいるだろう。それにもかかわらず、私は特定の相手にはこの喜びを伝えたいと思う。他の人には話したくない「つまらない出来事」を、その人には話したいと思う。この状態は、その相手を信頼しているということなのか。あるいは、その人といると安らぎを感じるということなのか。それとも、単に甘えて期待しているだけなのか。それらを総合して考えると、それは「愛している」と呼ぶべき状態なのかどうか、自分でも判断に迷う。
このような考えに一瞬飲み込まれそうになり、頭を振って思考を中断した。将来、もし結婚相手がいるとすれば、ボールペンのような些細な話を、継続的に「話したい」と思わせてくれる人なのだろうと推測する。結婚記念日には毎年、「こうした小さな話を安心してできる相手でいてくれてありがとう」と、私から少し変わった感謝の言葉を伝えることになるかもしれない。
しばらく時間をおいてから、「銀座に行った」「ボールペンを買った」「書き心地がよかった」とだけメッセージを送ってみた。客観的に見れば、相手にとって重要度がほぼゼロの情報であるにもかかわらず、その人からすぐに返信が来た。その様子を見て、やはりこの人に話してよかったと感じ、再び感情が高ぶった。そして、この体験をBRUTUSの連載で書きたいと思った。連載を楽しみにしてくれている読者に対しても、ある種の信頼や安らぎを感じているのだろう。それもまた、少しだけ「愛」に近いものかもしれないと考えた。
今月で私は36歳になる。私は、ささやかな幸福によって生かされている一方で、ささやかな不幸によって簡単に打ちのめされる可能性もあると理解している。「おめでとう」と言ってくれる人たちに対しては、素直に「ありがとう」と思う。自分がいつまで「ヒコロヒー」という名前で呼ばれる仕事を続けるのかは決まっていない。自分の意思で終わらせることもいつでも可能だ。それでも、自分が年齢を一つ重ねられることを、私は非常に嬉しく、幸運なことだと感じている。
人生は必ず終わる。自分が泣いていようが笑っていようが、その事実は変わらない。これから、皺が増え、白髪が生え、時代の中心的な感覚から徐々にずれ、身体能力も視力も低下していくだろう。そのような変化を経たのち、現在の身体で過ごす時間は終わる。その限られた期間の中で、どれほど「ボールペンのような出来事」と、その出来事を話せる相手に出会えるだろうか。残りの時間の中から、そうしたささやかな幸福を意識的に見つけていきたいと考えている。
この考え方は、やや感傷的であるとも言える。だから、とりあえず今夜は、あのウイスキーを飲もうと思う。そのウイスキーの話も、やはり特定の相手になら話してみたいと感じる。そういったことを考えていた、ある10月の日の出来事である。
こんな感じで、
- 比喩を減らす
- 感情を「〜と感じる」「〜と判断している」に変換
- 一文を短くして因果関係を整理
すると、「理系っぽい」「説明的」「簡素で論理的な」文体になります。
もし「もっと機械的に」「学術論文レベルの無機質さで」など、理系化の強度を変えたい場合は、そこに合わせてさらに削ぎ落とすこともできます。
私が文系的な文章を苦手とする理由は、情報を正確に理解するうえで多くの障害が生じるからです。
比喩や感情表現、抽象的な回りくどさといった、内容に直接関係しない装飾が文中に多いと、核心部分が見えにくくなります。
言い換えれば、ノイズの多い文章は処理コストが高く、必要な情報に到達するまで余計な工程が発生してしまうのです。
その点、理系的な文章はたしかに味気ないように見えますが、それは目的が違うからです。理系文体は、事実を簡潔に伝え、因果関係を明確にし、不要な感情や曖昧さを排除することに特化しています。
私にとっては、そのほうが情報の構造を正しく把握でき、理解の速度も精度も高まります。文章が「美しいかどうか」より、「正確に伝わるかどうか」が最優先事項なのです。
AIが文系型文体を理系型文体に変換してくれる機能は、一種の翻訳作業だと感じています。
英語を日本語に変換するように、文章の核となる情報を抽出し、構造を整理し、再度言語化するというプロセスは、言語処理の“浄化”のようなものです。
AIはその作業を高速かつ正確に行う、自動フィルターとして非常に有用だと思っています。
おそらく、文系型の方々からすれば、「なぜそこまで味気ない文章を好むのか」が理解しづらいでしょう。
文章は情緒や余韻を楽しむものだという価値観からすると、理系文体は“無機質”で退屈に見えるはずです。
しかし私からすると、文系文体の多くは情報密度が低く、内容理解のために必要のない感情や比喩が混線の原因になりがちです。
この違いは単なる好みではなく、脳の情報処理の傾向、あるいは構造そのものの違いかもしれません。どちらが優れているという話ではなく、文章に求める役割が根本的に異なるのだと思います。
私は、自分の思考様式に最適化された文章へ瞬時に変換してくれるAIの存在に、大きな価値を感じています。
結局のところ、文体の好みは優劣ではなく、脳の構造や情報処理の傾向の違いに起因しているのだと思います。
私にとって理系文体は、世界を正確に把握するための最適な形式であり、AIがその変換を担ってくれることは大きな助けになっています。
今後も、自分に合った文体で思考を整理しながら、適切な距離感で文章と向き合っていきたいと思います。