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成功は必ず否定される──リソース小の者が自己責任で生きる理由と、外野の批判が無意味である構造

どうも、太陽です。

  

世の中には、「成功」という結果に対して、必ず否定の言葉を投げる人たちが存在する。

その否定は、成功者がどの立場からスタートしたかによって形を変えるが、結論は常に同じだ。

「それは運が良かっただけ」「恵まれていただけ」「生存者バイアスだ」という言葉で片づけられる。

本稿では、リソースが乏しい立場から地道に改善を重ねてきた一人の視点から、成功がなぜ必ず批判されるのか、他責思考と自己責任原則の違いは何を生むのか、そして「何をしても文句を言われる世界」でどう生きるべきかを、論理的に整理していく。

 

まず、よく耳にする意見がある。

リソースの少ない者、たとえば「落ちこぼれ」と見なされていた集団や個人が、後に大きな成果を出した場合、それは「もともと手札が恵まれていた」「運が良かっただけ」「だから例外であり、生存者バイアスだ」という評価を受けるというものだ。

一方で、最初からリソースに恵まれていた者、家庭環境、学歴、人脈、資本などを多く持っていた者が、そのまま順調に成功した場合も、やはり「恵まれているから成功した」「努力できるのも才能」「環境が良かっただけ」と言われる。

つまり、出発点が低くても高くても、成功したという事実そのものが、必ず外部から相対化され、価値を削がれる構造になっている。

成功者に対しては、常に「運」「才能」「恵まれ」が持ち出され、努力や選択の意味は軽視される。

 

ここで、他責思考の人間の構造を考える。

他責思考の人は、人生の失敗や停滞を、常に外部に割り当てる。

親が悪い、社会が悪い、学校が悪い、教育が悪い、政治家が悪い。

責任の所在は無限に外へ広がっていく。

その論理の延長線上では、成功者が多くの収入を得ているなら、後から税金で調整すればいいだけの話になる。

リソースを増やした人間を個別に叩いたり、努力や行動そのものを否定したりする意味は、本来ないはずだ。

 

私自身は、責任の割合を「自分4、外部6」だと考えている。

自分で変えられる範囲は確かに限定されている。

家庭環境、時代、社会構造、運といった要素は、個人ではどうにもならない。

しかし、その固定された6を前提にしたうえで、残りの4をどう使うかで、人生の形は変わる。

 

仮に、外部要因によって有利なスタート地点に立った人がいたとしても、その上澄み部分は後に税金や制度で調整される。

だからこそ、個人がリソースを増やそうとする行為そのものを否定する理由にはならない。

私は、自分がリソース小であることを自覚している。

月額5万円という極めて限られた範囲の中で、何とか状況を改善しようと試行錯誤している最中だ。

人生全体を振り返れば、敗北の連続だったと言っていい。

それでも、幸福度を5点程度まで引き上げることができた。

 

だが、ここで待っているのは称賛ではない。

「それは手持ちの札が良かっただけ」「生存者バイアスだ」という言葉だ。

リソース小がのし上がれば「例外」とされ、美談として消費されるか、あるいは再現性のない話として切り捨てられる。

リソース大がのし上がれば「恵まれているだけ」と批判される。

 

結局、どちらの立場であっても、のし上がった瞬間に批判は避けられない。

そう考えると、外部の人間、いわば外野の連中の批判には、そもそも正当性がない。

人は誰かが何かをすれば、必ず理由をつけてケチをつける。

成功して有名になればなるほど、そうしたノイズに見つかり、石を投げられる。

 

さらに矛盾した要求も飛んでくる。

リソースが少ない者が節約して生きていれば、「経済を回していない」「もっと稼げ」「貧乏スタイルは社会に悪影響だ」と言われる。

一方で、リソースが多い者には「金持ちなのだから消費しろ」「寄付しろ」「地位に見合った行動をせよ」と要求される。

つまり、立場に応じて文句の内容が変わるだけで、文句そのものは必ず存在する。

であれば、自分の思うように生きたほうが合理的だ。

すべての声に反応していたら、何も進まない。

ノイズはノイズとして、意識的に距離を取るしかない。

 

私が自己責任原則で生きるようになってから、人生が激変したと言うと、それすらも「生存者バイアスだ」と言われる。

確かに、手持ちの札の中に有利な要素が含まれていた可能性は否定しない。

しかし、それでもリソース小からスタートし、節約し、学び、行動し、地道に積み上げてきた事実は消えない。

他責思考の人間は、「社会や外部が悪い」という主張に留まる。

仮にそれが事実だったとしても、社会がいつ変わるのか、誰かが助けに来てくれるのかは分からない。

現実には、社会も他人も自動的には助けてくれない。

 

だから私は、外部頼みをやめた。

自分で動くしかなくなり、自己責任で直感を研ぎ澄まし、身銭を切って行動するようになった。

その結果、改善が起きないほうがおかしい状況になった。

他責思考の人は、誰かが助けてくれること、社会が自分の都合のいい方向に変わること、他人が自分の期待通りに振る舞うことを、どこかで期待している。

しかし、そんな都合のいい展開はほとんど起こらない。

結果として裏切られたと感じ、社会や他人に石を投げ続け、不平不満を言い続ける人生になりがちだ。

 

手持ちの札の良し悪しは確かにある。

それでも、自己責任原則で動けば、何かしらの改善は必ず起きる。

生存者バイアスだと言われ、多くの人が真似できないかもしれない。

それでも、やるしかない。

節約、筋トレ、ダイエットは大変だが、やれば確実に報われる分野だ。

一方で、国家レベルの監視を想定したセキュリティ対策は、ほとんどの人には真似できない。

ブログを400記事以上書くことも、多くの人には難しい。

しかも、それが必ずしも成果に直結するとは限らない。

 

改革者や「出る杭」が嫌われる理由も明確だ。

それは、基準を上げる存在だからである。

今まで楽をして、現状維持でそこそこの給料や待遇を得ていた人たちにとって、改革者の存在は「努力しなければならなくなる脅威」になる。

大谷翔平選手のような存在は、スポーツという特殊な世界の外れ値であり、一般社会の基準を直接引き上げる存在ではない。

しかし、会社や身近な人間が実際に変わり、成果を出し始めると、「あいつは変わった」と否定的に言われる。

 

それは、「あなたに追いつくために努力しなければならないじゃないか」という無言の叫びだ。

人は基本的に怠けたい生き物であり、努力を要求する環境や人を本能的に嫌う。

「人は人、他人は他人」と割り切れる価値観の人は影響を受けにくい。

しかし、そうでない人は他人の変化を自分への圧力として感じ、反発し、嫌悪を向ける。

 

結局のところ、リソースの大小にかかわらず、何かを成し遂げれば必ず批判される。

それが運でも才能でも恵まれでも、生存者バイアスでも構わない。

外野は常に理由を探し、石を投げる。

だからこそ、自分で変えられる範囲に集中し、自己責任で動き、ノイズから距離を取る。

それ以外に、現実的な生存戦略はない。

何をしても文句を言われるのなら、自分の信じるやり方で進むほうが、よほど健全で合理的なのだ。

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