どうも、太陽です。
長年にわたる強い不信感の蓄積は、人の世界認識そのものを変えてしまう。
私の場合、それは国家機関やマスコミ関係者による監視や嫌がらせを受けているという認識と結びつき、極度の人間不信を生んだ。
その結果として、PTSD、適応障害、社交不安といった症状を抱えることになった。
そうした精神状態の中で出会った、ある一人の男のエピソードは、私にとって予想外に大きな意味を持つことになった。
その男は、Gravityで出会った人物である。
彼は高卒でトヨタ系の工場に就職し、その後も転職を重ね、最終的には大企業の営業職にまで上り詰めたという経歴を持っていた。
工場勤務と大企業の営業職とでは、当然ながら周囲にいる人間の性質が大きく異なる。
彼の言葉を借りれば、それは「民度」の違いであり、理性の強さ、自己コントロール力、誠実性といった面での差として体感されたという。
また彼自身は、利己的か利他的かという軸で言えば、どちらかといえば明確に利他的な側の人間だった。
私はこの話を聞き、この腐った世の中で、ここまで人間性の高い人物に出会うこと自体が珍しいと感じた。
彼は工場勤務時代、工場長にまで昇格した。
しかし、その立場に立っても、部下たちは思うようについてきてくれなかった。
そのとき彼は、なぜ部下が従わないのかを真剣に考えた。
そして、工場長という立場から部下に対して、自分は何を直接与えているのかと自問した結果、「実は何も与えていない」という事実に気づいたという。
給料は工場長ではなく、さらに上の経営層から支払われている。
命令や管理だけでは、人の心は動かない。
部下が自分に心から従わないのも、当然だと納得した。
そこで彼は、自分にできることは何かを考え、「社員が働きやすい環境を作ること」こそが自分の役割だと結論づけた。
彼はトイレ掃除や雑用といった、これまで工場長が決してやらなかった仕事を自ら進んで行うようになった。
従来の工場長たちは、そうした作業は社員にやらせるのが当然だと考えていたが、彼はあえて逆の行動を取ったのである。
この姿勢は、時間をかけて社員たちに浸透していった。
やがて社員たちは、自発的に働くようになり、職場の雰囲気も変わっていった。
その結果、彼の部署だけが目に見えて業績を伸ばすようになった。
噂は他の部署にも広がり、「あの部署で働きたい」と希望する社員が増え始めた。
この状況に激怒したのが、他の部署の工場長たちだった。
それまで楽をして地位と給料を得てきた彼らにとって、彼の存在は、自分たちの怠慢を浮き彫りにする脅威だった。
楽ができなくなることへの反発から、彼に対して直接的な悪口や嫌がらせが行われるようになり、最終的に彼は左遷され、会社を辞めることになった。
彼は去り際に、自分の下で働いていた社員たちにこう言い残したという。
「自分はこれからも頑張って出世していく。もし出世できなかったら、自分のやり方が間違っていたことになる。そのときは自分のことは忘れてくれていい。もし出世できたら、誇りに思ってほしい。迷惑をかけてすまない」
しかし現実には、彼の部下たちは理不尽な巻き添えを食らい、不遇な立場に追い込まれた。
後日談として、高齢の社員を除き、ほとんどの社員が転職したと聞いた。
この話を通じて私は、世の中にはこれほどまでに熱く、純粋で、誠実性の高い人間が存在するのだということ、そして同時に、そうした人間ほど嫉妬や嫌がらせの対象になりやすい運命を背負っているのだと強く感じた。
私は長年、自分が犯罪者を扱う組織やマスコミ関係者から嫌がらせを受けているという認識のもとで生きてきた。
そのため、この男の体験に強い共感を覚えた。
彼の存在は、私にとって一種のカウンセリングのような効果を持ち、彼との会話を思い出すこと自体が、治療に近い感覚をもたらした。
だからこそ、このまま彼と再び話をし、もし幻想が壊れてしまうくらいなら、あえて距離を保ち、良い思い出として残した方がいいのではないかとさえ思っている。
フィクションや創作物には、同じ役割、つまり人間の「きれいな側面」を示す存在がいるが、私はマスコミの闇を知ってしまったがゆえに、素直に浸ることができなくなっている。
一般的に、ズルや不正、嘘や虚飾を当たり前のように使う人間は、こうした嫉妬や嫌がらせを受けにくく、集団に溶け込みやすい。
一方で、工場長の男や私のように、純粋さを保って生きようとすると、予想外の抵抗に遭う。
ここで「共感力」というテーマに話を広げる必要がある。
ひろゆきは、自身のYouTube動画で「自分は共感力が低い方だ」と語っている。
かつての社会では、同性愛者の男性を笑いものにすることが当たり前だったが、今ではLGBTという概念が浸透し、同じことは許されなくなった。
共感力や常識は、時代によって大きく変化する。
同様に、かつては薄毛もテレビで散々笑いのネタにされており、影響力の強いメディアによって劣等感を植え付けられた人も多かったはずだ。
仮に、非常に共感力の強いエンパスが存在したとしても、ウクライナの人々の悲劇や、毎日起こる痛ましいニュースのすべてに共感し続けることは不可能である。
それでは疲労困憊してしまう。
人間は必ず、どこかで共感の線引きをしている。
保守的な価値観では、自国ファーストとなり、外国人は共感の範囲から外れることが多い。
共同体主義であれば、その共同体までが共感の対象となる。
あるいは近年増えている「自分主義」のように、自分と身内だけに共感を限定する人もいる。
本来、人間は利己的な存在であり、8割以上の人間は自分の生存を最優先に考え、関心は常に自分ごとに向いている。他人事には基本的に無関心である。
その中で、私や工場長の男は特殊な存在であり、同類だと感じられたことが、私に安心感をもたらした。
これは明確なカウンセリング効果だった。
ところが、この工場長の話をGravityの別の3人に話したところ、まったく共感を得られなかった。
それどころか、「大企業の営業職を語るのはいやらしい」「民度という言葉は差別的だ」「工場で改革や変革を行うのは場を乱している」と否定された。
この反応に私は愕然とした。
結局、このエピソードは、誠実性の低い人や楽をしたい虚飾的な人間には受け入れられないのだと悟った。
そしてその拒絶の構造は、彼を追い出した他部署の工場長たちや、私が長年受けてきたと感じている嫌がらせと同質のものに思えた。
この理解は人間嫌いをさらに加速させる一方で、同種の人間が少数でも存在していたという事実を思い出すことで、完全な人間不信をわずかに和らげる効果もあった。
なお、違法な傍受を行っているとされる金持ちの大企業社長について、私は模範的な人物だとは到底思えない。
私自身も、精廉潔白だとは言わないが、何十年にもわたる違法傍受や、立場が脅かされたからといって嫌がらせをするような行為はしない。
そのような低俗な人間が高い地位や富を持っている現実には、強い興ざめを覚える。
共感力が低いと自称するひろゆきでさえ、少なくともこうした嫌がらせはしていないだろう。
共感力の低さよりも、嫉妬や保身から他人を攻撃する行為の方が、はるかに軽蔑に値する。正当防衛は別として。
この世界は、誠実に生きる者にとって優しくはない。
しかし、それでもなお、同じ方向を向いて生きた人間の存在は、深い孤立の中で確かな救いとなる。
たとえ再び会わなくても、その記憶が自分を支え続ける限り、それは確かに「意味のある出会い」だったと言えるのだろう。