どうも、太陽です。
加害者の無自覚と制度の欠陥が重なれば、被害者の怒りさえ“過剰反応”と片づけられる――そんな理不尽が日常的に起きている。正当防衛すらハードルが高い現実の中で、私たちはどう身を守り、どう距離を取るべきなのか。
本稿では、TV局と某大企業による違法行為に巻き込まれた体験を通じて、「加害者の鈍感さ」と「被害者の不利」を浮き彫りにする。
違法行為に手を染める連中の感覚は――「え、そんなに怒ること?」程度だ。加害者は常に被害を受ける側の痛みを想像できない。自分がやられて初めて気づくが、それまでは驚くほど鈍感だ。だからこそ実行に移せる。
ここで忘れてはいけないのが、悪気があるにせよ、ないにせよ鈍感な人間は確実に存在するという事実だ。犯罪レベルでも自覚がない無神経なタイプもいれば、分かっていてあえていたぶる確信犯的サディストもいる。いずれにせよ被害者から見れば関わる価値は皆無だ。
悪気のない無自覚人間は何度でも同じ過ちを繰り返すし、確信犯は謝罪の有無にかかわらず再犯をためらわない。そして彼らは往々にして「なんか悪いことした?」「その程度で怒るの?」と開き直る。その瞬間こそ損切りのサイン――無駄な時間を費やさず離れるべきだ。
そもそも、本当にまともな人間は他者への無神経な言動が少ないし、やらかしたとしても同じ失敗を何度も繰り返さない。
慢性的に違法行為を受け続ければ、誰だって怒りが込み上げる。私も長らくTV局と某大企業に対して怒りを抱えてきたが、客観的に分析してみて**「これは怒って当然だ」**と再確認できたとき、むしろ心が軽くなった。酷い仕打ちが日常化すると、人は悪い意味で麻痺し、鈍感になりがちだ。怒りを表明することさえ「悪なのでは?」と自分を疑ってしまう瞬間もある。
だがTV局と某大企業に怒りをぶつけるのは自然な反応に過ぎない。むしろ怒りを抑え込み続けるほうが心を蝕む。もちろん「被害者アピールだろ?」と揶揄されるリスクはある――何しろここは加害者天国の日本だ。しかし、声を上げずに泣き寝入りを続ければ、鈍感な加害者たちはますます助長されるだけである。
問題は、彼らに現実の「痛み」を与えないと自覚させられないのに、正当防衛でさえ被害者側が不利になる制度設計にある。結果として泣き寝入りが横行し、加害者がのさばる。一部には土下座や形ばかりの謝罪で反省を装う者もいるが、信用すべきではない。彼らの認識は依然として「その程度で怒る?」のままだ。
そんな人間には強く言ってもバチは当たらないが、怒りの労力すら無駄に終わる可能性が高い。結局、最適解は「損切り」――関わりを断ち切ることだ。そうすれば相互に恨みも残らず、平穏でいられる。もっとも、ストーカーまがいに絡んでくる厄介者もいるのだが。
違法行為はれっきとした犯罪だ。それでも警察や国は何もしてくれず、むしろ加担していることさえある。犯罪だから怒っているのに、「その程度で怒るの?」と言われたら笑うほかない。
TV業界のスローガンは「楽しくなければTVじゃない」。その裏で横行する違法行為、パワハラ、セクハラ、枕営業――「楽しいからいいだろ?」と正当化する腐った構造がある。ここでも加害者の口癖は「その程度で怒る?」だ。
自分が選んだ苦しみか、他者に押しつけられた苦しみか。例えば、パワハラを受けながら職場に留まるか、転職の痛みを選ぶか――被害者はどちらかの苦しみを選ばざるを得ない。
私の場合は完全犯罪レベルの違法行為に巻き込まれた側だ。脱却へ向けて準備を続けてはいるが道のりは長く、ストレスは今も続く。自分で選んだ苦しみなら耐えられるが、巻き込まれた苦しみは堪える。
TV局と某大企業による違法行為は、私の主観的幸福度を 10 点満点中 2 点も引き下げるほどのストレス源だ。関わりたくもないのに執拗に追いかけられる――それでも現在の幸福度を 5 点に保てているのは、自らの努力の賜物だろう。もしこの二つの違法行為から解放されれば、幸福度は 7 点まで回復するはずだ。
制度が変わるのを待つだけでは、鈍感な加害者の前に泣き寝入りが続くだけだ。だからこそ私たちは、自衛の術を磨き、関係を断ち切る勇気を持ち、そして声を上げ続ける――主導権を取り戻すために。