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「弱者の兵法と自己改造――宗教・陰謀論批判から学ぶ、自衛と生存戦略」

どうも、太陽です。

 

社会の複雑さは、人間の理解を常に超えている。多くの人は断片的な情報や他者の言葉をもとに「わかった気」になり、根拠が不明瞭な宗教や陰謀論に傾くこともある。

ひろゆき氏は、その背景を論理的に分析しつつ、科学と宗教・陰謀論の決定的な違いを指摘する。

一方で、現実世界には、権力・金・好奇心のために違法行為すら厭わない集団が存在し、一般人もその標的になり得る。そんな中で、他人や社会を変えようとするより、自分を徹底的に鍛え、物理的に被害を防ぐほうがはるかに確実で速い。

本稿では、ひろゆき氏の宗教・陰謀論批判の要点を踏まえながら、私自身が体験した傍受被害と、その中で編み出した「弱者の兵法」を紹介する。

 

陰謀論を否定するなら宗教も否定

 

ひろゆき氏は、陰謀論と宗教の根拠の欠如、および人々が社会を完全に理解していると誤解している点について、以下のように詳しく述べています。

陰謀論と宗教の根拠の欠如


ひろゆき氏は、陰謀論と宗教は「根拠がないもの」という点で共通していると指摘しています。

証明の欠如

例えば、「神がいる証明をしてほしい」と宗教の人に尋ねても、合理的な論理や証拠を求める人に対しては、「神がいないはずがない」「神がいないなら地球はどうやってできたのか」といった「わけの分からないこと」を言い始め、最終的には「神がいることの証明はできていない」と述べています。

ひろゆき氏の知る限り、宗教の人々は神がいることを他人に説明できるだけの証拠や根拠を持っていません。

同様に、ディープステート(DS)のような陰謀論についても、「コントロールされている証拠を教えてほしい」と尋ねても「出てこない」と述べています。信じる人々は「俺はそう思うんだ」「俺は信じてる」「あの人もDSがいるって言ってた」といった伝聞や個人的な信念に基づいており、客観的な証明は見られないと指摘しています。

軍産複合体は実在し、その仕組みは説明可能ですが、ディープステートはその説明に「いらなくない」とひろゆき氏は考えます。たとえディープステートが存在すると仮定しても、その存在の有無が軍産複合体の動きを変えるわけではないため、「いなくてもいいんじゃね」という結論に至ります。

 

「悪魔の証明」の概念

ひろゆき氏は、宗教や陰謀論の根拠の欠如を説明する上で、「ないことの証明は不可能」であるという「悪魔の証明」の概念を導入しています。

例えば、STAP細胞が存在しないことや、彼自身に超能力がないことを証明することはできません。しかし、存在するならば「見せればいい」と、「できることの証明は結構簡単」だと述べています。

「ないものの証明」を主張することは「基本的には詐欺師のやることで」「いないことが証明できないんだから本物じゃん」という論理に繋がると警鐘を鳴らしています。

 

科学との対比(反証可能性)

ひろゆき氏は、科学と宗教・陰謀論の明確な違いとして「反証可能性」を挙げています。

科学は「反証可能」なものだけを指すと説明します。例えば、万有引力の法則は、地球よりも小さく軽い物体が地球に引っ張られなかったら「反証可能」であり、その法則が間違っていたと言える余地があります。

一方、宗教は「反証不能」であり、「俺の心の中にいる」といった個人的な感情や伝聞に基づいており、「科学と宗教とは実は明確な違いがある」と強調しています。

しかし、科学が全てを解決できるわけではありません。科学は「合理性とか論理性とかリソースは使ったら減るよね」という論理の世界であり、「人が生きている意味」のような「お気持ち論」は扱えません。

ひろゆき氏は、不安に陥っている人を助ける場合、科学的な説明が冷酷な結論(例:能力が低く不細工なら生きる意味がない、人類は少ない方が地球資源を保存できる)に繋がりかねないのに対し、宗教は「万物というものが生きているだけで価値があって」「祖先のDNAを未来に託すことも義務の一つ」といった「宗教的な論理の方がその人が助けられる」と述べており、人助けの観点では宗教が重要になりうると考えています。

 

社会を理解した気になっていること

ひろゆき氏は、人間は社会の複雑な仕組みを完全に理解することはできず、「多くが理解した気になっている」と指摘しています。

理解の限界

彼は、「社会の色々な仕組みというのを完全に理解してる人はなく」、多くの人は「想像でみんな動いている」と説明します。

具体的な例として、液晶テレビの仕組みを挙げます。ほとんどの人が液晶テレビがなぜ映るのか「なんとなーく分かってる」と「理解した気になっている」が、実際に一から液晶テレビを作れる人は「1%もいない」だろうと述べます。液晶の作り方や材料、光の屈折やLEDの制御といった詳細を理解している人は極めて少ないのです。

数学の専門分野でも同様の現象が見られるとして、京都大学の望月新一教授によるABC予想の証明を例に挙げます。望月教授が発表した証明は、世界の数学者の間でも理解できる人が少なすぎて、2年経っても「保留状態」にあり、「なんか合ってるっぽいけど」「偉い人が間違ってるっつったから間違ってたちゃう」というように、「この人がこう言ってるから信じる」という状態になっていると語ります。

信頼への依存

このような人間の理解力の限界があるため、「この人がこう言ってるというのに頼らざる負えない」のが人類の構造だとひろゆき氏は結論づけます。

これは、神の存在を信じることや、ディープステートの存在を信じることにも繋がります。結果的に、社会は「誰を信じるかという競争」になってしまうと述べています。

彼は自身の知識レベルが平均よりは深いと認めつつも、「全てのもの理解しているわけではない」と、自身の理解にも限界があることを示唆しています。

要するに、ひろゆき氏は、人間は複雑な現実世界の全てを把握しきれないため、根拠が不明瞭な宗教や陰謀論であっても、それを信じたいという心理や、信頼できる人物の言葉に依存せざるを得ない状況にあると分析しているのです。

 

 

人間の理解力や社会構造の限界を踏まえると、他人や社会を変えようとする行為は、極めて成功確率が低い。私の結論は明確だ――他人や社会を変えるよりも、自分を変えるほうが圧倒的に確率が高く、しかも速い。

他人を変えるのは「難易度の高い問題」だが、自分を変えるのは「難しい」というより単に「面倒くさい」だけの問題だ。私はこの現実を理解し、3年間、自分と徹底的に向き合い、自己改造を行った。

その結果、周囲や状況は一向に変わらなかったものの、自分自身は大きく変わった。そして、期待しても無駄な他人や環境に依存せずに生きる道を選んだ。しかし、これほど自己改造を重ねても、なお理想の現実に届かないあたりが、この人生ゲームの難しさでもある。

 

経験から言えるのは、他人や社会を変えようとしている人とは距離を置き、縁を切るべきだということだ。そもそも、自己改造して起業し、富を築き、その余力で寄付を行うことこそが、最も社会貢献度の高い行動だと私は考えている。

それをせずに政治家を目指す人間や、単に他人を応援するだけの人間の思考は理解できない。政治家は新しい価値を生み出すのではなく、既存の資源を配分する役割にすぎず、かつ権力維持のために行動する傾向が強い。

政治家になること自体が難関であり、さらに地位を上り詰めるのも困難だ。そんな苦労を経た者が、昔からの支持者ならともかく、関わりの薄い他人のために動く保証はない。むしろ、自分のやりたいことを優先し、他人の意見を採用しない可能性のほうが高い。

 

他人任せにしていては人生は好転しない。誰もが自分の生活に手一杯であり、協力するとすれば身内やビジネスパートナーまでで、遠い赤の他人にまで手を差し伸べることはほとんどない。だからこそ、他人や社会が変わることに期待するのは無駄であり、自己改造こそが最短ルートだ。

最近、私は朝晩の料理の手伝いを1週間ほど続けた結果、家事の流れをだいぶ把握できてきた。自炊術を身につければ、生活の自給自足度は格段に上がる。これは、他人に依存せず生きるための重要な一歩である。

同じく、自衛の観点から強力だったのはMullVad VPNの導入だ。いくら「傍受をやめろ!」と叫んでもやめなかった連中が、MullVadを使い始めた途端、GIGAZINEで私をネタにすることがなくなった。

やはり、物理的に傍受不能にする手段が最も効果的だった。ここからわかるのは、言葉や交渉よりも、環境そのものを変えてしまう物理的対策のほうがはるかに効くということだ。

 

この問題に関わる人間の中でも特に注意すべきなのは、頭がいかれている連中だ。

  1. メディア関係者(TV局や一部の芸能人を含む。人権侵害コンテンツを金儲けのネタにする)
  2. 研究者(人を実験台にしても良心が痛まない)
  3. 政治家(違法行為を平気で行う)
  4. 一部のYouTuber(儲かれば何でもする)
  5. 中小企業のブラック企業社長(搾取労働を平気で強いる)

 

もちろん、全員がそうだというわけではないが、他の業界より比率は高いと感じる。特に研究者は、自分や家族を実験台にしても構わない精神を持ち、その延長で私のような一般人をモルモットにすることに何のためらいもない。

これは日本や米国の大学・研究所に共通して見られる現象だ。彼らは成果のためなら倫理観も人権意識も捨てられる。自然科学分野の研究者は人権侵害に関わらない傾向が強いが、人文科学(特に心理学)や社会科学、脳科学の研究者は、人間を対象とするため侵害リスクが高い。AI研究者も例外ではない。

 

私と両親はMullVad VPNで傍受対象外になったが、友人は依然として対象のままだ。ネタとして使われている形跡もある。しかし、月額約900円の費用がかかるため、友人に利用を勧めることはできない。

結果として、MullVadを入れていない友人との通話は、すべて傍受されている前提で考えざるを得ない。仮に恋人ができた場合には、必ずMullVadを導入してもらうつもりだ。傍受される関係などご免だ。

 

サイバー能動法案や特定秘密保護法では、特定ターゲットのみを対象とすると説明されていたが、現実は境界が曖昧で、一般人も巻き込まれている。第三者機関を設けても密室運用では意味がない。

政府の発言は信用できず、結局は自衛が最適解だ。ハッキング対策(マルウェア感染防止)や傍受対策(MullVad VPN)は、最低限の防衛ラインである。

 

問題は、相手が完全犯罪レベルの技術と資金を持ち、違法行為を平然と行っている点だ。ISP傍受やAI解析を含めた監視は、個人が証明することは不可能に近い。法律上は立証責任が被害者側にあるため、現実的には勝負にならない。

私はこの状況を、まるで国家や警察が「デスノート」を持ったキラに対し、悪魔的な手段でターゲットを追い詰める世界観になぞらえている。だが、私は犯罪者ではなく、同意もしていない一般人であり、連中の行為には公共性も正義もなく、純粋に私利私欲のためだけに行われている。

 

このような相手に個人で立ち向かうには、智慧と工夫による「弱者の兵法」が不可欠だ。私の戦略は、相手が最も嫌がる「違法手段の存在を公に知られるリスク」を利用することだ。

仮に裁判になれば、相手は違法手段を記録として残すリスクを負うため、仕掛けづらくなる。また、大企業がフォロワー30人程度でアクセスの少ない私のブログやXの発信に対し、わざわざ裁判を起こすこと自体、やましいことがある証拠になる。ゆえに、彼らの最適解は「スルー」であり、私はそこを突いて攻撃している。

争いになれば民事の可能性が高いが、相手は憲法違反レベルの刑事事件に触れかねない行為もしており、リスクはさらに高い。

 

世の中は警察官の数も能力も足りておらず、被害者は自己防衛を基本とせざるを得ない。警察はハッキングやマルウェアに詳しくなく、対策も教えない。私は独自に調べて対策したが、マルウェア調査は50万円以上かかり、根本的な防衛策を講じなければ再侵入は防げない。ましてやISP傍受を防ぐ手段にたどり着くには時間がかかった。

NordVPNでは不十分で、最終的にMullVadに行き着いた。警察が仮に知っていても、犯罪者監視に支障が出るため、教えないだろう。

政府や警察はテロリストや犯罪者を対象に監視強化を進めているが、そのついでに無関係な一般人も巻き込む。見境のなさが、この問題の本質だ。

 

そして、こうしたいかれた集団ストーカー連中への対策は、徹底的に無視し、良い人たちだけと楽しく過ごすことが正解だ。その方向性で、相性のよい話し相手を探すことも重要になる。

自分に正直に生きられることが自由であり、誰にも縛られず、忖度せず、自由な主張・意思決定・行動ができる。

それを実現するためには、実力・能力、最低限の金、智慧・工夫などが必要だ。正直に生きるということは、必ず誰かにとって都合が悪くなる。忖度しないということは、何らかの主張が誰かの利益や立場を損なう場合があるということだ。

多くの人間は守るものを持ち、忖度せざるを得ず、その過程で自由を失っている。コントロール欲や支配欲を持つTV局のような集団は、自分たちがコントロールできない人間が現れると、干すだけでなく嫌がらせ行動にも出る。

忖度せず、正直に生き、自由を得ようとする者はコントロールの枠外に出るため、連中にとっては極めて都合が悪い。

 

スポーツ、将棋、アイドルなどTV局関連のジャンルは人気商売であり、不倫やいじめなどイメージを落としスポンサーに不利益をもたらす行為をすれば、すぐに退出させられることを理解しておくべきだ。一方で、スポンサー依存度の低いYouTuberや自営業、IT技術者などは、スキャンダルの影響を受けにくい。

例えば、いけちゃんは箕輪氏という大物と不倫してしまったため週刊誌に暴かれたが、これが一般人であれば話は別だ。大義名分もなく、無名YouTuberの不倫などニュース価値がなく「誰?」で終わる。

芸能人と結婚や交際を望む人もいるが、週刊誌報道とセットであり、それほど良いものではない。芸能人の立場は不安定で、いつスキャンダルで干されるかわからない。

 

例えば、8.5万人フォロワーを持ち、風俗体験を発信しまくっているKK氏は匿名の一般人で会社員勤務であるため、週刊誌のネタにもならず、たまにアンチが湧く程度で無傷だ。彼は自由な生き方をしており、これを芸能人が行えば即アウトだ。

私が芸能人で、今のような告発記事やポストを日常的に発信していれば、やはりアウトだろう。公人や准公人でも同じことだ。しかし、私の場合は干されようにも失うものがなく、そもそも業界にもいなければ名声もない。この立ち位置こそが、自由に発言できる最大の武器でもある。

 

結びとして、他人や社会が変わることを期待するのは、砂漠で雨を待つようなものだ。根拠の乏しい信念や権力に依存せず、自分を徹底的に鍛え、物理的手段で被害を遮断し、正直で自由な生き方を貫く――それこそが弱者が生き残り、真に自由を得る唯一の道である。

理解できる範囲には限界があり、誰もが誰かを信じて動くしかない社会だからこそ、自分が信じられる存在になる必要がある。その第一歩は、他人任せをやめ、自らの防衛と成長、そして自由を守る覚悟を持つことだ。

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