どうも、太陽です。
ナンパを「悪」だとする人と、「出会いの一形態」として肯定する人のあいだには、深い断絶がある。
筆者は、当初その議論を冗談やネタの一種だと思っていたが、真剣にナンパを肯定する意見を聞き、価値観のあまりの違いに驚いた。
本稿では、ナンパという行為がなぜ市民権を得にくいのか、その構造的理由と心理的背景を、社会的・倫理的観点から丁寧に考察していく。
ナンパが社会的に良いものとされるのは難しい。
そもそも迷惑防止条例が存在する時点で、公共の場での無差別な声かけ行為には一定のリスクと不快感が伴うことが制度的に認められている。
それにもかかわらず、「誠実な交際を望んで声をかけているのだから、女性も受け入れるべきだ」という主張が一部にあるのは理解に苦しむ。
たとえば、メンタリストDaiGo氏がスターバックスで行ったナンパが話題になったが、これは例外的なケースである。
彼は有名人であり、金銭的にも成功者で、声をかけられた側にとっても「有名人から話しかけられた」という特別な経験になる。
つまり、そこには地位・信頼・経済力という安全弁がある。同じ行為を無名の男性が路上で行った場合、それは全く別の文脈になる。
ナンパ肯定派の人ですら「100人に声をかけて1人とうまくいけば上出来」と語っているように、成功確率は極めて低く、残る99人にとってはほとんどが不快な体験だ。
また、DaiGo氏の行動は「路上ナンパ」ではなく「スタバナンパ」である点にも注目すべきだ。
閉鎖的な空間ではなく、スタッフや人目がある安心な場で、偶然性の延長線上にある声かけであれば、心理的な抵抗は多少和らぐ。
一方、路上ナンパは身元不明の男性が不特定多数の女性に声をかけるという構造上、女性が「怖い」と感じても不思議ではない。
特に夜道や人通りの少ない場所では、その恐怖はリアルな危険と直結する。
「学校での声かけ」と「路上ナンパ」を同一視していたが、これも本質的に異なる。
学校内での声かけは、少なくとも相手の素性や評判がある程度わかる環境で行われ、社会的リスクも共有される。
一方、路上ナンパは匿名性が高く、責任の所在が曖昧なまま完結してしまう。評判リスクを一方的に女性側に押し付ける構造なのだ。
もしナンパが「市民権を得た」としたらどうなるだろうか。
今でも都内を歩けば1日に10回ほど声をかけられる女性もいるが、それが10倍になり、100人に声をかけられるような社会になれば、街を歩くだけで疲弊するだろう。
しかも現実には、その100人のうち「魅力的だと感じる相手」はごくわずかだ。
結局、ナンパが肯定されすぎると、日常生活の平穏が失われる。
営業マンの「飛び込み営業」をナンパに例えてみよう。
たしかに、100人に声をかけて1人が顧客になるという確率論的構造は似ている。
だが、同じように考えると、街で100人の営業マンに話しかけられる社会など誰も望まない。
営業は「興味を持つ人が情報を求める仕組み」を作って初めて成立する。
それを無視して無差別に接触すれば、迷惑でしかない。
女性が感じるナンパの不快感は、まさにそれと同じ構造にある。
さらに、ナンパは「報酬がない迷惑行為」である点が本質的に異なる。
職場でのパワハラやストレスは「労働報酬」があるため、耐える動機がまだ存在する。
だが、路上ナンパを受ける女性には何の報酬もない。
むしろ、断る手間と精神的ストレスというコストだけが生じる。
それを「修行」や「社会的訓練」と正当化する発想は、あまりに男性中心的で暴力的ですらある。
「100人中30人が嬉しそうな表情をした」という主の主張についても、その表情の意味を誤解している可能性がある。
それは女性が「ナンパされた=モテた」と一瞬錯覚する承認欲求の反応かもしれない。
実際には、多くの女性が笑顔を「防御」として使っていることを、男性は理解していない。
「若くてナンパされた経験がない女性が反応した」という事例も、むしろ未熟さや経験の浅さを示すだけだろう。
本当にナンパを肯定したいのであれば、やり方を工夫すべきだ。
たとえば、「自分のインスタやXのアカウントを作り、人となりがわかる投稿をした上で、声をかけた相手にアカウントが書かれた名刺サイズのカードを渡す」という方法は、極めてスマートで誠実だ。
女性はその場で拒絶する必要がなく、自分のタイミングでアクセスできる。
このように、相手の自由を尊重した手法であれば、まだ理解の余地はある。
しかし、問題の主はそうした良い助言を受け入れず、「正直な自分を貫く」ことに固執していた。
「自分を演じるのは不誠実だ」「ボロが出る」と主張するが、それは単なる創意工夫の放棄に過ぎない。
社会には礼儀や配慮という“演技”が存在し、それがあるからこそ他者と共存できる。
それを否定すれば、どんなに誠実でも独善的に見えてしまう。
実際、主の周囲には一定数の女性ファンや共感者がいた。
だがそれは、彼のナンパが魅力的だからではなく、ネタとして面白いからであり、危険ではない距離感で観察できる対象だからだろう。
Gravityルームの女性たちも、内心では「この人のルックスがどうかもわからないし、自分が声をかけられる可能性は低いから正直他人事」と思っていた可能性が高い。
むしろ、「誠実さ」を謳いながら定型的で下手なナンパを繰り返す姿を見て、「やはりナンパ師にまともな人はいない」と確信し、今後は完全に無視しようと決めた女性もいたはずだ。
つまり、彼らは“観察対象”として面白がられていただけであり、被害に遭う心配もない距離から安全に分析されていたに過ぎない。
Gravityルームの多くの参加者は、結局は他人事であり、自分が被害を受けない・責任を負わない立場だからこそ適当に相づちを打ち、無責任に意見を述べている。
匿名の場では、社会的評価も責任も発生しない。
有名人であれば炎上するような発言も、Gravityでは匿名・少人数という安全圏の中でいくらでも語れる。
そこに倫理的抑制も社会的リスクもない。
もちろん中には誠実に助言する人もいるが、それはごく一部に過ぎない。
それでも、その少数の誠実な人々が、主に対して具体的で有益なアドバイスを数多く与えていた。
しかし彼は、それらをまったく取り入れようとせず、自分流を貫こうとしていた。
その姿勢を見て、筆者は「理解力が悪すぎる人間が本当に存在するのだな」と実感した。
どんな分野でも上達には学習と修正が必要であり、それを拒む限り成長はない。
ナンパに限らず、あらゆる挑戦において“適切な難易度設定”が重要なのだ。
難易度が高すぎれば心が折れ、低すぎれば成長が止まる。
五分五分のバランスが最も人を伸ばす。
人間関係でも同じで、格下とばかりつるみ、自分の承認欲求を満たすだけでは何も得られない。
同等か格上と関わることで初めて、自分のレベルは上がる。
新しい分野に挑戦すれば誰もが素人になり、周囲は格上だらけになる。
そのなかで試行錯誤を重ね、少しずつ難易度を調整しながら上達していく――それが成長の王道である。
世の中には、まだ挑戦できていないことが無数にある。
どんな人でも「素人」になれる機会はいくらでもある。
ただし、格上に囲まれる環境は精神的にきつく、多くの人はそこに踏み込まない。
だからこそ挑戦する者だけが、真に強くなっていく。
自分の得意分野を極め、専門家になる道もまた尊い。
しかし、強くなりすぎて対戦相手がいなくなったときは、新たな分野に飛び込み、再び“素人”に戻る勇気が必要だ。
その繰り返しが、人を成熟へと導く。
営業マンでさえ、自分を「詐欺師のような存在だ」と自嘲しながら仕事をしている。
それほどまでに人に何かを売り込むことには罪悪感が伴う。
しかし、ナンパ師にはその自覚がない。
むしろ「自分たちは良いことをしている」と正当化し、「社会的に認められたい」とまで言う。
それは厚顔無恥としか言いようがない。
せめて営業マンのように「自分は迷惑をかけているかもしれない」という自覚と罪悪感を持ち、悪いイメージを背負ったうえで行動すべきだ。
ナンパを行うのであれば、「悪行」としての自覚を持ってこそ最低限の節度が生まれる。
一部の女性が「もっと男性は肉食的であれ」と言うのも理解はできるが、それは「積極性を持て」という比喩であって、「誰彼構わず声をかけろ」という意味ではない。
ナンパには「断られる耐性を鍛える」という側面もあると主張する人もいる。
だが、それは営業マンが「水をぶっかけられても通い続ける」のと同じで、相手にとっての迷惑を正当化する理由にはならない。
努力の方向を間違えた自己鍛錬は、むしろ社会的な害悪になりかねない。
男女の感覚差もこの議論の根底にある。
男性の多くは「100人の女性のうち50人と付き合ってもいい」と思えるが、女性は「100人の男性のうち付き合いたいのは3人ほど」という感覚を持っている。
つまり、同じ行為でも“迷惑度”の感じ方が圧倒的に違う。
だからこそ、ナンパは「悪」ぐらいの位置づけでちょうど良いのだ。
ナンパを「良いイメージ」として理解してもらおうとするのは、そもそも無理がある。
その行為が成立するのは、ごく限られた条件──安全性、誠実さ、相互理解──が揃った場合だけだ。
もしそれでも声をかけたいなら、せめて方法を洗練させ、相手に選択権を与えるべきだ。
ナンパは悪であっていい。
悪だからこそ、節度が生まれ、社会が保たれる。
そして、その節度を理解できない者が増えるほど、ナンパという行為はますます「悪」に近づく。