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真善美と知の限界──道具主義から見た人間の体系化と自信の根拠

どうも、太陽です。

 

古来より、人は「真・善・美」という三位一体の理想を掲げてきた。

真に正しいものは倫理的に善であり、同時に美しい──そうした一体性の感覚は、普遍性・唯一性・永遠性というもう一つの三位一体とも深く似通っている。

この二つの理念が重なるところに、人間社会を超えた「普遍的真理」を求める衝動があるのだろう。

実際、そうした普遍性を追い求める人々は、しばしば人文科学や社会科学といった人間中心の領域から離れ、より抽象的で超越的な領域に向かおうとする。

しかし、私自身はむしろ人間社会に関わる領域──心理学を中心とする人文科学、そして経済学・経営学・法律などの社会科学──に興味を持ってきた。

自然科学はあまり深く触れてこなかったが、物としての関心ならコンピュータには強く惹かれる。

 

私は実用主義者であり、ものの価値は「実際に使えて役に立つかどうか」で判断する。

道具は道具であり、それがどのように作られ、なぜ動くのかをすべて理解する必要はない。

もちろん、専門家にとっては内部構造を理解することで応用力が増すという利点はある。

だが、すべての人がそのレベルまで掘り下げる必要はない。

私はそれを「道具主義」と呼び、十分に合理的な立場だと考えている。

 

たとえばセキュリティやプライバシーを守るツールとしてVPNがあるが、その仕組みまで理解する必要はない。

専門家ならともかく、一般の人間にとっては「使えること」こそが本質である。

学問の世界でも同様に、深く掘り下げて体系化しようとする人はごく一部であり、ほとんどの人はそこまでの意欲も能力も持たない。

多くの人は“使える知識”の範囲で満足し、道具主義的なレベルで止まる。

AIのブラックボックスを解明しようとする研究者もほんの一握りに過ぎない。

そして、そうした体系化の作業を放棄し、道具として使うだけで終わるのが大多数の現実だ。

 

私が議論した相手の主張は、この点でどうにも噛み合わなかった。

その人は「ほとんどの人が体系立てる意志を持つべきだ」と主張し、確かに学問においては一定の妥当性がある。

しかし、問題は“限界を知ること”への理解が薄かった点にある。

また、「人間の思考はパターン認識と規則性の理解がほとんどだ」という意見にも、私は違和感を覚えた。

 

彼のように「賢い人は体系立てられたシステムの構築を目指す」と考える人もいるが、私は逆だと思う。

本当に賢い人ほど、世界が複雑系であり、人間の知能ではすべてを整理し、理解し尽くすことは不可能だと悟っている。

だからこそ、道具主義的に考え、専門分野を限定し、体系化されたマニュアルを参考にしながら、柔軟に現実へ対応するのだ。

 

人間の知能には限界がある。

正確に判断し、合理的に決断を下せる範囲には明確な上限がある。

ゆえに賢い人はAIや外部の専門家を頼り、確率論的な発想でリスクを分散する。

失敗を想定した上で実行し、もし失敗してもリカバリーできる設計をあらかじめ整える。

つまり「完全な成功を目指す」のではなく、「失敗を許容しつつ損害を最小化する」思考法に移行するのだ。

 

私は自分の文章力では、もはやAIに敵わないと自覚している。

ブログ執筆でもAIリライトを頻繁に利用し、効率と精度を高めている。

文章だけでなく、多くの分野でAIはすでに人間を超えている。

囲碁AIがプロ棋士でさえ理解不能な手を打つように、結果を出す理論や手法は、もはや人間の理解を超えているのかもしれない。

もし学問分野でも同じ現象が起きるなら、「本当に結果を出す理論」は、人間の記述力を超えた領域に存在する可能性がある。

人間が理解できる理論とは、自己満足的で閉じた体系に過ぎず、実際の成果を伴わないことが多いだろう。

 

もちろん、個々の主張レベルでは科学的に実証できることもある。

しかし、全体を整合的に体系化するのは極めて難しい。

心理学でさえ再現性はおよそ4割程度にとどまり、人間の行動を完全に再現することはできない。

それでも、人間はバラバラな知識よりも、理路整然と整理された理論を見ると安心し、心地よさを感じる。

それは「理解したい」というよりも、「理解した気になりたい」という心理的欲求かもしれない。

 

現実的には、教科書的な理論よりも、実践の中で磨かれた暗黙知や経験則こそが役立つ。

完全に整理された理論ではなく、ある程度の体系性を持った「現場の知恵」を頭に入れておくことで、結果を出す確率は上がる。

理論を使いこなすとは、完璧な理解ではなく、状況に応じた柔軟な適用である。

 

私は自己肯定感や自信には、何らかの根拠があった方が良いと考えている。

人間を「リソース」と「能力・実力」という2軸で4象限に分けるとわかりやすい。

第一象限は「リソースが少ないが能力がある」──努力と実力に裏打ちされた自信。
第二象限は「リソースも能力もある」──理想的な成功者。
第三象限は「リソースも能力もない」──いわゆる“勘違い野郎”。
第四象限は「リソースは大きいが能力が伴わない」──運や時代の波に恵まれた一時的な成功者。

 

もちろん、この区分は単純化であり、能力の有無もグラデーションで存在する。

しかし、根本的に言いたいのは、自己肯定感や自信には、リソースか能力のどちらかの根拠があるのが健全だということだ。

 

私の場合、リソースは乏しいが、「ゴキブリのようなサバイバル能力」に自信を持っている。

極限状況でも生き延びたという事実は、私にとって明確な根拠である。

自己肯定感を支えるセルフ・コンパッション(自分への思いやり)も大切だが、それはあくまで一時的な鎮静剤に過ぎない。

客観視力の高い人間ほど、「根拠なき自信」には納得できない。

根拠のない自信は幻想であり、心理的安定剤にはなっても真の強さにはならない。

 

一方で、リソースも能力もないのに自信満々な人々──いわゆる勘違い野郎──も存在する。

しかし、それもまた一種の生存戦略だ。

現実を正確に見れば絶望してしまうような立場にあるからこそ、彼らは自分を過大評価し、認知を歪めて生き延びているのだ。

その意味では、彼らの“勘違い”もまた自己保存のための進化的機能と言える。

だが、やはり長期的には、何らかの能力や実力を構築しない限り、持続的な自信にはつながらない。

 

人がどのような拠り所によって自信を持つのか──それに私は強い興味を持っている。

若い女性であれば、自分の外見の可愛さを根拠にしているかもしれないし、他者との関係(家族・配偶者・人脈)を自信の源泉にしている場合もある。

胸の大きい女性(胸の体積が370cm³を超える女性)は自尊心が高い傾向にあるが、体への満足度とは関係がないなどの主張もある。

https://nazology.kusuguru.co.jp/archives/186770

胸の大きい女性は自尊心が高い傾向がある

いずれにせよ、根拠のない自信は基本的に“勘違い”の領域だと思う。

 

もっとも、根拠のない自信が行動力を生み、結果としてリソースを増やすこともある。

その場合、リソースが少ないうちから自信を持ち、後にリソースを得たあとには傲慢に変わる傾向がある。

いわゆるナルシシズムだが、それは一種の才能でもある。

根拠がなくとも自信を持ち続けられる精神構造は、普通の人間には難しい。

 

逆に、地位・名声・金・家族・ルックス・人脈といった外部要素に依存した自信は、それらが失われた瞬間に崩壊する危うさを内包している。

だからこそ、私は外部リソースではなく、自分の内部に根拠を持つことを重視する。

私の根拠は、極限状態でも生き延びた経験そのものであり、それはゴキブリのようなサバイバル能力への確信となっている。

集団ストーカーの魔の手をくぐり抜け、それを解体したという事実。

圧倒的にリソースが乏しい状況で、それでも生き延びたという経験。

これこそが、私にとって確固たる自信の源泉なのだ。

 

結論として、人間の知能や理論構築の限界を理解することは、単なる諦念ではなく、柔軟で現実的な知恵への入り口である。

体系立てられた知を尊重しながらも、実用主義的に道具を扱い、自己の生存能力に根拠を持って自信を築く。

それこそが、現代の複雑系社会を生き抜くための、最も理にかなった「人間的賢さ」だと、私は考えている。

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