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過失割合で世界を見る──被害者責任論・外れ値幻想・科学との正しい距離感

どうも、太陽です。

 

加害者と被害者をめぐる議論、自己責任論、外れ値への憧れ、科学との付き合い方。これらは一見すると別々の話題に見えるが、実は「どこまでが本人の責任で、どこからが構造や環境の問題なのか」という一点で深くつながっている。

本稿では、過失割合という考え方を軸に、被害者責任論の無意味さ、加害者天国としての社会構造、人生における自己責任の限界、外れ値と科学の関係性について、論理的な整合性を保ちながら丁寧に整理し直す。

内容は一切省略せず、主張の射程を明確にしたうえで、より読み取りやすい形に書き換えていく。

 

加害者と被害者の関係は、本来であれば過失割合という形で比較的明確に整理できる問題である。そして大半のケースにおいて、過失割合は圧倒的に加害者側が大きい。

被害者にも何らかの落ち度や弱点があったとしても、それはせいぜい1割から2割、多く見積もっても3割程度であることがほとんどだろう。

にもかかわらず、「被害者にも悪い面がある」という言い方が、まるで加害者の責任を相殺するかのように使われることがある。

しかし、過失割合で考えるなら、それはほとんど意味を持たない。1割や2割の非があるからといって、7割や8割の責任を負う加害者の行為が軽くなるわけではないからである。

 

「被害者にも悪い面がある」という言説に無条件に同調する人間は、大きく分けて二種類いると考えられる。

一つは、自分自身が将来、加害者側に立つ可能性が高い人間である場合。もう一つは、被害者の立場や心理状態に対する想像力が著しく欠けている場合である。

もし本気で被害者側の非を問題にしたいのであれば、抽象的な言い方ではなく、「過失割合で言えばどれくらいなのか」を具体的に示すべきだろう。

しかし実際には、「被害者に6割の過失がある」といった主張をする人はほとんど存在しない。それを言ってしまえば、被害者よりも加害者のほうが軽い責任になるからである。

現実的には、言うとしても3対7、つまり被害者に3割の非があった、という程度の話にしかならないはずだ。そして仮に3割の非があったとしても、それは決して加害者を肯定する理由にはならない。

 

詐欺被害の話は、この構造を特に分かりやすく示している。「騙されるほうが悪い」という言葉を口にする人は多いが、その人たちは過失割合をどう考えているのだろうか。

最大限に被害者の責任を重く見積もったとしても、3対7、すなわち被害者が3割、詐欺を行った犯罪者が7割悪い、というのが妥当な線ではないだろうか。

それ以上被害者の責任を大きくするなら、被害者のほうが主に悪いことになってしまうが、さすがにそこまで主張する人は少ない。

騙されやすさの背景には、知識不足、孤立、不安、認知の歪み、環境要因など、複合的な事情が絡んでいることが多い。そのような事情を抱えた人に対して、3割の非があったという理由だけで執拗に責め続ける気には、とてもなれない。

 

ただし、何度も繰り返し詐欺に遭ってしまう人の問題は、また別の難しさを含んでいる。非常に気の毒であり、同情の余地は大きいが、どう対処すべきかは簡単には答えが出ない。

なぜなら、この社会では加害者が十分に罰せられず、構造的に守られていることが多いからである。その結果、被害者だけが一方的に損失を被り、「自分で自分を守れ」と言われる時代になっている。

加害者のリスクが低く、被害者のコストが極端に高い。これは、明らかに加害者に有利な社会構造である。

 

このような状況では、被害者は自分の正しさを自分で証明し、権利さえ自分の力で勝ち取らなければならない。被害者であるにもかかわらず、圧倒的に不利な立場に置かれる。

日本社会は、この意味で「加害者天国」と言っても過言ではない。だからこそ、この社会で生き延びるためには、いかにして自分を守るかが重要なテーマになる。

にもかかわらず、被害者をひたすら責め続けるような発信をする人間がいるなら、そのような人物とは距離を置いたほうがいい。

その人間は、加害者予備軍である可能性が高く、関われば高い確率で被害を受けることになるだろう。表に出ていないだけで、すでに何らかの加害行為を行っている可能性すら否定できない。

 

この「過失割合」の考え方は、人生全体にも当てはめることができる。人生がうまくいくかどうかを過失割合で表現するなら、自己責任は4割程度であり、残りの6割は外部要因、つまり生まれ持った環境やリソース、運によって決まっていると考えるのが妥当ではないだろうか。

人が自分の意思と努力で変えられる範囲は、せいぜいその4割程度であり、残りの6割についてはどうにもならない部分が大きい。

それにもかかわらず、人生がうまくいかない理由を、あたかも100%本人の責任であるかのように責められる場面が少なくない。

 

このような状況下では、自分を守るためのセルフコンパッションとして、「多責」、すなわち外部要因に原因を帰属させる考え方は、十分に合理的な生存戦略である。

現実問題として、文句を言ったところで誰かが助けてくれるわけではないが、すべてを自己責任にしてしまえば精神が持たない。

人生は6対4で、持って生まれたリソースによって大枠が決まり、そのうえで4割の範囲で工夫するしかない。しかし、6割のリソースを持っている人ほど、その自覚が乏しく、「努力すれば誰でもできる」と言いがちである。

 

だからといって、リソースを多く持つ人に対して「それを捨てろ」と要求することは現実的ではない。そこで出てくるのが、税金による再分配という仕組みである。

高額納税者ほど多くの税金を支払うことで、人生の不公平さはある程度調整されている。この点において、累進課税は理にかなった制度だと言える。

 

一方で、科学が嫌いだと公言する人の中には、「自分は外れ値だから科学は当てはまらない」と思い込んでいる人が少なくない。しかし、本当の意味での外れ値は極めて稀である。

確かに、本物の外れ値であれば、既存の科学理論が当てはまらないケースもあるだろう。だが科学には多くの分野があり、どれか一つくらいは自分に当てはまる理論が存在するはずである。

それらを完全に無視し、ヒントとしてすら使わないのは、単純に思考停止に近い。

 

年の差婚や一部の成功者などは、まさに外れ値であり、生存者バイアスの典型例である。そうした例を一般人のロールモデルとして、「あなたもなれる」と啓蒙するのは明らかに矛盾している。

それは例外だからこそ注目されているのであり、努力すれば誰でも到達できるものではない。一般人にできるのは、せいぜい戦略を立て、習慣化を行い、あとは運を待つことくらいである。

外れ値になれるかどうかは、ほぼ運次第だ。

 

筋トレですら、1年間継続できる人は全体の4%程度だと言われている。副業で成功する確率も相当低いだろう。月に3万円程度の副収入が得られれば、現実的には上出来な部類である。

「自分は例外だ」「偉人になれる」と信じて挑戦し、散っていった人は数え切れないほどいる。ただし、大きな目標に挑戦した結果、小さな目標は達成できた、というケースもあるだろう。

外れ値にはなれなかったとしても、平均的なパフォーマンスには到達できたかもしれない。それは本人にとっては不本意かもしれないが、現実的には十分な成果である。

 

外れ値との向き合い方には、大きく四つの態度が考えられる。

自分にも他人にも外れ値を適用する人、自分には適用するが他人には適用しない人、自分には適用せず他人には適用する人、自分にも他人にも適用しない人である。

極端に楽観的なのは最初のタイプであり、世の中の大抵のことは努力で何とかなると考えている。

二つ目のタイプは、自分の才能や特異性をある程度自覚している人である。

三つ目は、いわゆる推し文化的な思考に近く、教育ママやプロデューサー気質と言えるかもしれない。

四つ目は冷めた批評家タイプで、否定的なことしか言わないため、周囲をしらけさせがちである。

 

自分自身を振り返ると、二番目と四番目の中間あたりに位置していると感じる。発想力や創造性など、自分の得意分野については特別性を認識している一方で、それを他人が簡単に身につけられるとは思っていない。

他人に対しては、外れ値の素質がありそうな人には前向きな言葉をかけるが、そうでなさそうな人には、より再現性の高い科学的な助言をする。たとえば、副業を勧めるよりも、節約を勧めるといった具合である。 

素質がない人に過度な期待を持たせ、無理に頑張らせることには疑問を感じる。節約でさえ、実際にできるのは5割程度の人だろう。

それなら、外れ値を目指すことがほとんどの人にとって非現実的なのは明らかであり、それを万人に向けて啓蒙することには無理がある。

 

天才や外れ値は育てるものではなく、勝手に育っていく存在である。放置していても、自然と突出してくる。むしろ重要なのは、秀才をどう育成するかである。秀才は教育次第で伸びしろがあり、工夫の余地が大きい。

敏腕ハッカーの育成を考えても、きっかけを与えることはできても、その後は本人次第であり、多くの場合は独学になる。

天才や外れ値は独学と非常に相性がよく、独学できないのであれば、そもそもその素質はないと言える。一方で、秀才は教育機関との相性が良く、体系的な指導によって力を伸ばしやすい。

 

問題なのは、客観性が強い人ほど、自分は外れ値ではないと無意識に理解しており、その結果として力をセーブしてしまう点である。

逆に、主観が強い人は「自分は外れ値だ」と思い込み、セーブが効かず、思わぬ力を発揮することがある。ほとんどの場合は失敗するが、稀に成功してしまう。

こうした成功者は、往々にして教育者には向かない。なぜなら、科学的な理論や多人数に当てはまる再現性のある知識に関心がなく、自分自身の成功体験というサンプル1だけを語るからである。

「とにかく行動せよ」といった精神論しか語れないことも多い。

 

主観に強く依存する人は、科学と相性が悪く、研究者にはまったく向かない場合が多い。しかしそれでも、科学を完全に無視する必要はない。

科学は多人数に当てはまる再現性のある知見を提供してくれる以上、生きるための武器やヒントとして活用するのは賢い選択である。

盲信する必要はないが、参考にする価値は十分にある。そのくらいの距離感がちょうどいい。

 

そもそも、起業や現場での実践においては、科学的にまだ解明されていないことや、論文として発表されていないことが無数に存在する。

だからこそ、現場は手探りであり、科学を待っていてはスピードや変化についていけない。ストリートスマートな人間は、科学を盲信せず、ヒントとして活用しつつ、自分なりの仮説と検証、実験を重視する。

そこにこそ、現実を生き抜くための知恵がある。

 

逆に、客観性が欠けている状態では、自分が語る内容の的確さは下がり、将来の見通しや予測の精度も大きく落ちる。

感覚や勢いだけで判断するようになれば、短期的には上手くいくことがあっても、再現性は低くなりやすい。だからこそ、世界をどう捉えるかという点において、一定の客観性は不可欠である。

ただし、客観性にも適材適所がある。プレーヤーとして前線で戦う立場と、マネージャーや投資家、研究者のように俯瞰して判断する立場とでは、求められる思考の質は大きく異なる。

 

客観性があまりにも高すぎる人は、リスクと失敗の確率を冷静に計算できるがゆえに、自分が当事者として飛び込むプレーヤーには向かないことが多い。

勝率の低さや不利な条件を正確に理解しすぎると、最初から動けなくなってしまうからである。プレーヤーには、良くも悪くも「自分は外れ値かもしれない」「格下でも格上を倒せるかもしれない」という思い込み、いわばジャイアントキリングを起こせるという錯覚が必要になる。

その錯覚があるからこそ、普通なら挑まない勝負に挑み、番狂わせが生まれる余地が出てくる。

しかし、その思い込みだけで突き進めばよいというわけでもない。自分は外れ値かもしれないという主観を持ちながらも、同時に自分自身の能力や限界、そして相手の力量について、できる限り正確に認識する視点が求められる。

過大評価でも過小評価でもなく、現実に即した自己認識と他者認識を持つことで、無謀と挑戦の境界線を見極めることができる。

主観によって踏み出す勇気を持ち、客観によって致命傷を避ける。

この二つを往復しながら使い分けることこそが、外れ値幻想に飲み込まれず、それでもなお可能性を閉ざさずに生きるための、極めて実践的な態度だと言える。

 

科学は再現性があり、多くの人に当てはまるからこそ強力だが、実際に運用してみると、僕の場合はそのままでは当てはまらないこともかなり多い。

だからこそ、「理論としては正しいが、自分の身体や生活にどう落とし込むか」という試行錯誤が重要になる。

たとえば、スクワットはダイエットにも健康にも良いとされているし、科学的にもエビデンスが豊富な種目だが、遺伝的に変形性膝関節症になりやすい僕にとっては、万人向けのメニューをそのまま真似すればいい、という話ではない。

負荷や回数、フォームを普通の人よりかなり控えめに調整しなければ、逆に関節を壊すリスクのほうが高くなってしまう。

つまり、「スクワットは良い」という一般論は活かしつつも、「僕の膝にはどのレベルが限界なのか」を自分で検証していく必要がある。

 

また、「モノより思い出のほうが大事」という有名なフレーズも、一般論としては理解できるが、僕にはそのままは当てはまらない。

僕には相貌失認の傾向があり、映像や人の顔をほとんど覚えられない。せっかくの思い出も、時間が経つと鮮明なイメージとして呼び出せないことが多い。

だから、記憶だけに頼るのではなく、画像やテキストとして保存する必要があるし、それ以上に、毎日触れて恩恵を受けられるガジェットなどの「モノ」を手に入れるほうが、僕にとっての満足度は高い。

旅行にあまり興味がないのも、こうした特性が大きく影響している。

旅先の風景をあとから鮮明に思い出せないのであれば、それよりも日常のなかで役に立ち続けてくれる道具に投資したほうが、自分にとっては合理的なのだ。

 

さらに、「不安な人ほど不要なモノを溜め込みがちだ」という指摘も、一般論としては一理ある。不安を抱えた独居老人が、家の中を不要品で埋め尽くしてしまうような事例は現実に存在する。

しかし僕の場合は、不要品ではなく「実用品」を意図的に溜め込んできた。不安だからこそ、日常生活を支えてくれるツールを手元に揃えておき、その使い方を身体で覚えることに力を注いできた。

道具を使いこなすのが人間であり、ガジェットや実用品は逆境下で僕を支えてくれる数少ない味方だった。頼れる人間がほとんどいない状況でも、実用的なツールがあることで、「これさえあれば何とかなる」という感覚を得られ、不安はかなり軽減された。

不要品ではなく実用品をストックしておくことは、インフレが進行している現在の状況を考えると、なおさら理にかなっている。

値段が上がる前に、長く使える道具を前倒しで買っておくことは、防衛的な投資でもある。

 

こうした一連の経験から痛感しているのは、科学的な知見や一般に広まっている「良いとされる価値観」を、そのまま鵜呑みにするのではなく、自分の身体的条件や認知特性、生活環境に合わせてカスタマイズして使うことこそが、本当の意味で賢いやり方だということだ。

特に、節約やセキュリティの分野は、まだ体系的な知見が十分に整理されておらず、本や論文にも載っていないグレーゾーンが多い。

だからこそ、僕はそこで徹底的に手探りの試行錯誤を重ねてきた。その過程で、机上の理論よりも「実際にやってみてどうだったか」を重視する、実践的な思考に自然とシフトしていったのだ。

 

過失割合という視点は、被害者と加害者の問題だけでなく、人生、才能、科学や一般論との向き合い方にまで応用できる強力な思考ツールである。

すべてを自己責任に押し込めるのでも、すべてを運や環境のせいにするのでもなく、「どこまでが自分の責任で、どこからが構造や前提条件の問題なのか」を冷静に見極める。

そのうえで、自分を守りながら、科学や理論、世間の常識を「そのまま信じる対象」ではなく「自分用にカスタマイズする素材」として扱い、使える部分だけを徹底的に活かし、使えない幻想は容赦なく切り捨てていく。

その態度こそが、加害者天国の社会と外れ値幻想が飛び交う時代を生き延びるための、最も現実的であり、なおかつ自分への誠実さを保てる戦略なのだと思う。

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