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日本はなぜ「加害者天国」になったのか──利益至上主義と人権軽視の構造

どうも、太陽です。 

 

企業経営、学校、メディア、司法、警察。これらを貫く日本社会の根本的な歪みとして、「加害者に甘く、被害者に厳しい構造」が存在している。

人権を無視し、弱者を切り捨て、搾取を正当化するほうが利益が上がるという考え方は、果たして本当に正しいのか。

そして、もし自分自身がその「被害者」になったとき、人は同じ主張を貫けるのか。本稿では、企業論・いじめ問題・国際比較を通じて、日本社会が抱える「加害者天国」の正体を明らかにする。

 

人権を無視し、奴隷的な契約関係、たとえばピンハネ率7割といった極端な搾取、パワハラやセクハラ、集団優先の文化を容認したほうが、短期的には企業利益が上がるという現実は確かに存在する。

中国の労働環境や、かつての日本の芸能界は、その典型例だろう。

現在、テレビ局はコンプライアンス全盛の時代に入り、結果として業績が回復しているが、それは過去の犠牲の上に成り立っているとも言える。

 

一方で、「アットホーム」「社員を大切にする」ことを掲げながら、業績を上げている企業も確かに存在する。しかし、それが全体のどれほどの割合を占めているのかを考えると、決して多数派ではない。

仮に、人権を無視したほうが全体として企業業績が上がるのだとしたら、利益という一点だけを見れば、人権無視は「正解」になる。

しかし、その構造の中で、もし自分が人権を踏みにじられる被害者になった場合、それでも耐えられるのか。

他人事でいられ、自分が常に搾取する側、つまり権力者側に居続けられると信じている人間だけが、人権無視を肯定できるのではないか。

 

実際に、ある人物はこう主張していた。

「コンプライアンスの基準が高すぎる」「被害者が強くなりすぎた」「転職の自由は減らしたほうがいい」「育成しても途中で辞める」「解雇規制は緩和すべき」「失業率は上がったほうがいい」。

これらはすべて、経営者目線から見れば合理的に聞こえる。

さらにその人物は、「資本主義である以上、搾取は当たり前」「学校はお客様扱いだが、企業は違う。労働者は労働して賃金をもらう立場であって、お客様ではない」とも述べていた。

 

一部には事実として正しい点もあるが、全体として極端に経営者寄りであり、労働者や被害者の立場が完全に切り捨てられている。

こうした発言をする人間の動機を考えると、その多くは「自分はずっと経営者や権力者の側に居続けられる」という前提に立っている安泰組である可能性が高い。

これが、ボクシングのような完全実力主義で、かつ地位の変動が激しいスポーツの世界であれば話は違う。

明日は我が身であり、今日の勝者が明日の敗者になる可能性を誰もが理解しているからこそ、選手は謙虚にならざるを得ない。

権力の座が不安定であれば、極端に権力者寄り、経営者寄りの視点にはなりにくい。

 

しかし、日本社会では、権力者が権力を濫用しやすい土壌がある。

それは、人権を無視することが利益最大化につながりやすいという現実と、さらに「自分はこの権力者ポジションから落ちない」という思い込みが重なっているからだ。

国際比較をすると、この違いはさらに明確になる。

フランスでは、軽度のいじめであっても、いじめた側が転校させられる。一方、日本では、いじめられた側が転校するのが常態化している。

韓国では、過去のいじめが発覚した場合、ソウル大学などの名門大学が合格を取り消す事例が実際に存在する。

日本ではどうか。いじめられた側はトラウマを抱え、不登校になり、人生に深刻な影響を受ける一方で、いじめた側は推薦入学、スポーツ特待、企業内定を得て、何事もなかったかのように人生を進めていく。

さらに韓国では、凶悪犯罪で有罪判決を受け、再犯の恐れが高いと判断された人物に対し、GPS付きの電子足輪を装着させる制度があり、性犯罪の再犯率が9分の1にまで下がったというデータもある。

日本では、このような強い再犯防止策はほとんど取られていない。

 

こうした事実を総合すると、日本は明らかに「加害者天国」である。

いじめや性犯罪においても、加害者に対してあまりにも甘い。

なぜここまで甘いのかといえば、権力者層が潜在的に「加害者側」である可能性が高いからだと考えられる。

 

「被害者が強くなりすぎた」と言う経営者寄りの人間がいるが、実態は逆である。

これまでが、加害者に甘すぎただけだ。

権力者によるもみ消し、被害者の泣き寝入り、周囲の見て見ぬふりが、長年にわたって横行してきた。

それがようやく少し是正され始めただけで、「被害者が強くなりすぎた」と不満を漏らすのは、既得権益が脅かされているからに他ならない。

 

被害者が、告発を含めて加害者に反撃し始めた途端、加害者側が怯み始めた。

加害者には、痛みを伴う形で反撃されなければ、理解しない者が多いのが現実だ。

現在の日本では、与党と警察が強固な体制を築き、警察権力が過度に集中している。

人質司法を含む人権侵害が黙認されている状況を見ても、日本の「お家芸」は実は、加害者による人権侵害と、それを許容する社会構造であると言える。

 

こうした状況の中で、トーマス@ガジェマガ氏のように、通話録音可能なスマートフォンを使い、自動録音とかけ放題プランを組み合わせ、「人生の任意保険」として備える姿勢は、一見すると心配性に見えるかもしれない。

https://x.com/gadgetKaeru/status/2000172568486302116 

しかし、一寸先は闇であり、明日は我が身である社会においては、これほどの慎重さと準備をしている人間こそが生き残る可能性が高い。

 

いじめ問題に目を向けると、いじめは同質的な集団に異質な特徴を持つ人物が紛れ込んだときに発生しやすい。

陽キャ集団に陰キャが入ればいじめが起きやすく、逆もまた然りである。

いじめには多くの場合、首謀者が存在し、その周囲に取り巻きが3人ほどいて、合計4人前後で1人をターゲットにする構図が生まれる。

1対1であればまだ深刻化しにくいが、多数によるいじめは卑怯で、被害は格段に大きくなる。

 

被害者が優しかったり控えめだったりすると、反抗しない態度を「弱さ」と誤認され、「いじめてもいい存在」として扱われ、いじめはさらに助長される。

そして、被害者が限界を超え、殺す覚悟で反撃したときに初めて、いじめっ子が脅威を感じ、いじめが止まるケースすらある。

 

学校は社会と異なり、目的のない村社会的な集団であり、距離を置いた関係が築きにくく、逃げ場がない。

未成年が集まり、本能がむき出しになりやすい環境だからこそ、いじめは深刻化しやすい。

会社は本来、仕事と利益のために集まる場であり、能力さえあればいじめられる確率は比較的低い。

しかし逆に、能力が低いと「給料泥棒」と見なされ、追い出し部屋に回されたり、非人道的な行為に対して声を上げると、「集団の和を乱すな」と圧力をかけられ、最終的に追い出されることもある。

フジテレビの女子アナ接待問題は、その象徴である。

本来の業務を逸脱した扱いを行い、それを隠蔽しようとした結果、過去なら通用したことが、現代では通用せず、企業としての信用を失墜させた。

 

お笑い番組におけるいじりやドッキリ、モニタリングも、本来は「金をもらっているからこそ」成立している。

それを金ももらえない学校や一般社会で真似すれば、ただの損であり、いじめに近い行為になる。

クロちゃんのような扱いを、報酬なしで一般人が受け入れるはずがない。

 

話を戻すと、日本では、いじめられた側が転校させられるケースが多すぎる。

本来は、フランスのように、いじめた側を転校させるか、少なくとも複数人で行ったいじめに対して賠償責任を負わせるべきである。

集団のノリに合わなかった不運を、被害者やその親が経済的・精神的に負担するのは明らかに不公平だ。

学校は未成年の子どもが集まり、目的もなく、逃げ場もないからこそ、いじめが深刻化する。

そして、いじめに限らず、日本社会全体が、加害者に甘く、被害者に厳しい「加害者天国」であるという現実は、否定しようがない。

 

人権を軽視し、搾取を合理化する社会は、短期的には利益を生むかもしれない。しかし、その代償として、誰もが「次の被害者」になり得る不安定な社会を生み出す。

明日は我が身であるという現実を直視し、被害者を叩く社会ではなく、加害を許さない社会へと変わらなければ、日本はこの「加害者天国」から抜け出すことはできない。

 

また、「明日は我が身」という言葉には、被害者になる可能性だけでなく、誰もが潜在的に加害者になり得るという意味も含まれている。

しかし、現実の多くのケースにおいて、過失割合を冷静に見積もれば、被害者と加害者の責任が五分五分になることは稀であり、高く見積もっても被害者3、加害者7程度で、加害者側の責任が明確に重い場合がほとんどである。

その前提に立てば、加害者に責任を負わせることは、倫理的には明らかに「善」である。

一方で、企業利益や組織防衛、効率や利益最大化という視点に立つと、責任追及はコストとなり、結果として被害者に泣き寝入りさせるほうが都合が良い、という判断が導かれてしまう。

つまり、人権や正義を取るか、短期的な利益を取るかという選択が、常にそこに存在している。

 

この選択は、単なる思想の違いではなく、自分自身が将来どちらの立場に立つと無意識に想定しているかを映し出す、いわばリトマス試験紙のようなものだ。

加害者を擁護し、「被害者が強くなりすぎた」「多少の犠牲は仕方ない」と語る人間は、心のどこかで、自分は将来も加害者側、あるいは権力者側に居続けられると信じている。

逆に、被害者を擁護し、責任の所在を明確にすべきだと考える人間は、明日は自分が被害者になるかもしれないという現実を、より切実に想像している。

どちらが正しいかという以前に、この態度の違いそのものが、その人の世界観と立ち位置を如実に表している。

そして、明日は誰もが被害者にも加害者にもなり得る以上、責任を曖昧にし、被害者に泣き寝入りを強いる社会を選び続けることは、結局、自分自身の首を絞める行為に他ならない。

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