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自己責任原則と裸の生存戦略──PTSDを抱えた人間が、他責を捨てて生き延びるまで

どうも、太陽です。

 

もし「人生を確実に、そして劇的に変えた概念は何か」と問われたなら、迷いなく「自己責任」という言葉を挙げる。

この自己責任原則を、単なるスローガンや精神論としてではなく、本気で、徹底的に、自分の生き方の中核に据えたときから、人生ははっきりと変わり始めた。

外部の助けを前提にしない。誰かが救ってくれることを期待しない。

すべてを自分の判断と、自分の行動と、その結果として引き受ける。

その姿勢を取り始めてから、試行錯誤の密度が変わり、行動の精度が変わり、結果として人生の景色そのものが変わった。

 

人が本気で変わる瞬間というのは、たいてい追い込まれたところから始まる。

たとえるなら、ライオンが子を谷底に突き落とすような状況だ。

誰の助けも来ないと、心の底から理解したとき、人は初めて「自分の力で這い上がるしかない」という現実と向き合う。

その覚悟を、人生のどの時期に、どれほど深く持てるか。

それが、その後の生き方を決定的に分ける。

 

外部の助けが当てにならないと本気で理解すると、すべての行動が自分に跳ね返ってくる。

自分に甘くなれば、そのツケは自分が払うことになる。

ミスをすれば、自分で後処理をしなければならない。

他人の尻拭いをするかどうかも、「断るか、助けるか」を含めて、すべて自己判断になる。

 

この自己責任原則を徹底してから、買い物の失敗率は極端に下がった。

なぜなら、失敗の責任を誰にも転嫁できないからだ。

リサーチを徹底し、納得するまで調べ、判断する。

仮に失敗したとしても、買い物の損失は基本的に「金」だけで済む。

しかし、月五万円で生活している人間にとって、その「たかが金」が致命傷になり得る。

だからこそ、判断は慎重になり、結果として失敗は減っていった。

 

人生最大級の理不尽に直面したのが、「NSAに狙われる」という、とんでもない状況だった。

この件に関しては、誰にも頼れなかったし、助けも得られなかった。

他責にしたくなるほど理不尽で、過失割合で言えば九九対一、こちらに非はほとんどないにもかかわらず、マークされ、搾取された。

しかし、どれだけ理不尽でも、他責にしても状況は一ミリも改善しない。

NSAが「じゃあやめます」と言うことは絶対にない。

ならば、自分で対処するしかない。

三年かかったが、最終的に、個人が構築できる範囲としては最高峰と言えるセキュリティ体制にたどり着いた。

これは完全に自己責任原則の産物だ。

 

自己責任原則と並んで、人生に決定的な影響を与えたのが「期待値コントロール」という考え方だった。

自分と未来は変えられるが、他人と過去は変えられない。

この原則を、頭で理解するだけでなく、行動原理として叩き込んだ。

期待する対象を、徹底的に「自分」と「未来」に限定する。

他人と過去には期待しない。

変えられないものにエネルギーを注がず、変えられるものにだけベットする。

確実な期待値を一つずつ積み上げていけば、人生は少しずつ、しかし確実に良い方向へ傾いていく。

 

この自己責任の感覚は、テニスや将棋といった競技にも如実に表れる。

ミスをいつまでも引きずれば、その後のプレーは確実に悪くなる。

ミスも含めて「今の自分の実力」と受け止める自責感覚があると、切り替えが早くなる。

運も、ミスも、能力不足も、すべて実力のうち。

そう考えるようになると、言い訳が激減する。

もちろん、成果が出るまでは苦しい。

他責にしたい要素は山ほどある。

それでも、それをせず、すべてを実力のうちとして引き受け続けるのは、正直しんどい。

 

だが、他人というのは、こちらが思うほど過去の失敗を覚えていない。

むしろ記憶に残るのは、言い訳ばかりして成長しない姿だ。

ならば、他人の評価など気にせず、もがき続け、最終的に結果で示せばいい。

とはいえ、こちらには明確なハンデがある。

社交不安や自律神経の不調といった、健康面の問題だ。

本当にそれが原因なので、言い訳したくなる気持ちは強い。

しかし、相手から見えるのは「目の前の姿」だけであり、それが事実として評価される。

 

最近になって、社交不安や自律神経の悪化を軽減する方法を見つけた。

それが「裸」「ありのまま」でいるという姿勢だった。

良い意味で、完全に開き直った。

これまでの自分は、何かの期待に応えようとして仮面をかぶり、無理をしていた。

その無理がプレッシャーになり、IQは下がり、自律神経は乱れ、悪循環に陥っていた。

裸、ありのまま路線に切り替えると、変な気負いが消え、楽になった。

もちろん、この路線でいっても、受け入れられない場面はある。

修正点を指摘されることもある。

それをどこまで改善するかは、自分次第だ。

 

自分の中で納得できるパフォーマンスは出せるようになった。

自己評価は、以前の三点から七点程度まで上がった。

これ以上を目指すかどうかは分からない。

別に話術で勝負しているわけではない。

外交性が一の人間が、努力して三まで上げたとする。

本人にとっては限界まで努力した結果だが、他人から見れば「平均的」にしか見えない。

そこで「四まで上げては?」と言われたとき、さらに努力するかどうかは別問題だ。

 

話術も同じだ。

元々三点だった人間が、後天的努力で七点まで上げたとしても、相手が八点以上を求めてくるなら、その期待に応えるかどうかは分からない。

話術はプレゼン力だけでなく、話し方のスタイルや雰囲気を含む総合芸術であり、持って生まれた才能の影響が大きい。

さらに厄介なのは、体調によってパフォーマンスが大きく左右される点だ。

自律神経の不安定さは声に表れる。

自律神経という名前の通り、自分で完全に制御することはできない。

自律訓練法くらいしか、安定させる方法はない。

 

Gravityで一対一の真剣な討論をした際、脳をフル回転させたことで、プレッシャーとストレスが重なり、声に不安定さが表れた。

自分ではどうしようもない。

討論の中身では、最終的にこちらの結論に落ち着いた。

しかし、外野から見れば、こちらが追い詰められているように見えただろう。

ディベートでは、内容だけでなく、態度や声の余裕が勝敗に影響する。

自律神経の不安定さというハンデを背負っている以上、ストレスの強い場は避けたほうがいい人生だ。

論理的に正しくても、声が震えれば、メンタル不安定と見なされ、評価は下がる。

 

テニスでも同じだ。

自律神経が乱れると、パフォーマンスは大きく落ちる。

それでも、最近の試合では四戦して三勝一敗だった。

あらゆるメンタル技術を総動員して、何とか戦った。

 

最近、Gravityで頻繁にマイクに上がっているのは、社交不安の治療と慣れのためだ。

カウンセリングを受ける金はない。

だから自力治療として、暴露療法的に場数を踏んでいる。

リアルよりネットのほうが刺激が少ないので、これは現実的な方法だ。

 

チャット欄の七割はノイズだ。

真剣に受け止める必要はない。

価値があるのは三割程度。

これはXのポストも同じで、世の中はノイズだらけだ。

 

そして最終的に気づいた。

この慢性的な自律神経の不安定さは、社交不安障害よりも、PTSDの説明のほうがしっくりくる。

診断されていない以上、自称PTSDと言われるかもしれない。

だから治療にも本腰を入れてこなかった。

だが、冷静に振り返ると、やはりPTSDだ。

PTSDなのに、「開き直り」や「精神論」で治そうとしたのが間違いだった。

 

自己責任原則は、万能ではない。

だが、他責では何も変わらない世界において、唯一、自分が握れるハンドルだ。

PTSDという現実を直視した今、精神論ではなく、構造として、論理として、自分を扱い直す段階に来ている。

それでも、最終的に行動し、引き受けるのは自分しかいない。

裸のまま、ありのままで、できる範囲で戦う。

それが、この人生を生き延びるための、現時点での最適解だ。

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