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民度・自己コントロール・沈黙の戦略──ネガティブを語らない選択と、人が環境を選ぶ自由について

どうも、太陽です。

 

私は、できる限りネガティブなことを、心の中でも思わないようにし、さらに口に出さないほうがよいと考えている。

その理由は単純で、言霊という概念を若干信じているからだ。

あるいは、他人の悪口や否定的な言葉を発すると、脳はそれを「自分に向けられた言葉」と区別できず、結果として自分自身にダメージを与えてしまうからである。

それでもなお、どうしようもない理不尽に直面したとき、人は沈黙だけでは自分を保てないことがある。

本稿では、ネガティブ発信と沈黙の間で揺れながら見えてきた現実、そして「民度」という言葉が示すものの正体と、それが人生戦略において持つ意味について、順序立てて書いていく。

 

私は基本的に、ネガティブなことを考えない、言わない方向を選びたいと思っている。

しかし、現実には完全にそれを貫くことは難しい。

国家レベルの監視の問題、NSAやCIAによる監視の可能性、巨大企業の情報収集、Kindleにおける数字操作の疑念など、どう考えても自分一人の努力ではどうにもならない理不尽な出来事が重なったとき、どうしても発信してしまうことがある。

それらを定期的に言葉にすることで、自分の精神状態を平静に保てている側面があるのも事実だ。

黙り続けるより、吐き出すことで自分を壊さずに済んでいる、という感覚もある。

 

ところが、ネガティブなことを発信していれば「愚痴が多すぎる」「ネガティブだ」と言われる。

では、ネガティブな発信をやめるとどうなるかというと、「隙がない」「いい人すぎる」「作っている」「無理をしている」と言われる。

結局、どちらを選んでも、文句をつける人間は必ず存在する。

そうであれば、他人の評価に合わせて振る舞いを変える意味はない。

自分が楽なほう、自分が壊れないほうを選ぶのが合理的だ。

私の場合は、ネガティブ発信を減らす方向性のほうが楽だと感じている。

 

もちろん、その選択をしても「無理しすぎている」と言われる可能性はある。

しかし、現実問題として、誰かが助けに来てくれるわけではない。

助けが来ないのであれば、できるだけ平静でいられる精神状態を作り、動じない状態を維持したほうがよい。

動じなければ動じないで、また別のケチはつけられるだろうが、それはもうどうでもいい。

 

ここで、私が強く印象に残った出来事がある。

それは「民度」という言葉に対する、過剰とも言える拒絶反応だった。

ある人は、民度という言葉を差別用語だと感じると言った。

しかし、私の認識では、民度というのは明確に差が存在する概念だ。

足立区や西成といった地域が、一般的に民度が低いと見なされることがある。

大企業と比べれば、工場勤務者の集団のほうが、自己コントロール力という意味で民度が低い傾向がある。

これは感情論ではなく、行動特性の差である。

 

民度とは、人種や出自の問題ではない。

自己コントロール力の高さの違いである。

コツコツと努力し、衝動を抑え、長期視点で行動できる人間は、結果としてアリになる。

一方、衝動的で怠けやすく、目先の快楽を優先する人間はキリギリスになる。

アリとキリギリスの関係と同じで、勤勉さと自己コントロール力の差が、そのまま民度の差として現れる。

 

私は、民度の高い場所に行くこと、あるいは民度の高い人たちと関わることが、最もストレスの少ない人生につながると考えている。

キリギリスと一緒にいれば、たかられ、むしり取られ、消耗するだけだ。

そして興味深いのは、「民度」という言葉を差別だと強く主張する側が、ほとんどの場合キリギリス側に立っているという点だ。

民度という概念が認められてしまうと、「たかる側」でいることが正当化できなくなる。

だからこそ、言葉そのものを封じようとする。

 

この構造を理解すると、民度という概念の重要性がよくわかる。

わざわざ民度の低い人たちと関わる意味はない。

人には環境を選ぶ自由があり、環境を変える自由もある。

その意味で、メンタリストDaiGoさんのDラボは比較的治安がよく、民度も高い空間だと感じている。

 

民度が低い環境では、喧嘩やトラブルが高頻度で発生する。

不良の集団がその典型だ。

自己コントロール力が低いからこそ衝動的になり、感情のままに行動し、争いが起きる。

民度が低い場所に、わざわざ積極的に絡みに行く意味が私には理解できない。

それだけに、民度という言葉そのものに拒絶反応を示す人がいることに、正直驚いた。

 

民度というのは、今後の人生で「誰と関わるか」を決めるための重要なキーワードだと気づいた。

民度の低い環境や相手と関わると、トラブルの発生率は異常なほど高まる。

そして、民度の低い環境での嫌がらせは露骨で直接的だ。

一方、民度の高い場所でも嫌がらせは存在するが、それは巧妙で、いわば知能犯的な形を取る。

 

人間性を、利他的か利己的かという軸と、理性の強さ、すなわち民度や自己コントロール力、あるいはBIG5で言う誠実性という軸で分けて考えると分かりやすい。

職業によって人間性に差があるかと問われれば、答えはおそらく「ある」だが、その中身は民度の差である。

利他的か利己的かで言えば、人間の8割以上は利己的だ。

利他的な人間、自己犠牲を含めて他者に尽くす人は、ほとんど存在しない。

 

人間性の良さとは、利他性ではなく、民度、つまり自己コントロール力の高さである。

人は環境によって簡単に態度を変える。

そのため裏切りも起きる。

だから人間は基本的に利己的だと言える。

しかし、民度、自己コントロール力に関しては、環境に左右されにくく、比較的安定している。

足立区にいても民度の高い人はいる。

足立区が民度の低い場所だと見なされるのは、自己コントロール力の低い人が多いという傾向の話であって、個人を否定しているわけではない。

 

大企業は、コツコツと学習を継続できる人が入りやすい。

これは高学歴と相関がある。だから民度が高い。

しかし、高学歴や大企業社員が利他的かといえば、そうではない。彼らも基本的には利己的だ。

受験勉強は、他者を蹴落とし、自分のために努力する行為である。

そこに求められるのは勤勉さ、すなわち民度だ。

 

筋トレの1年間継続率は4%程度だと言われている。

安定して痩せることも同様に、勤勉さを要求される。

怠け者にはできない。だから、筋トレを続けている人や、痩せている人のほうが、民度が高い可能性がある。

民度とは自己コントロール力であり、BIG5の誠実性でもある。

民度を差別用語だと言う人は、それらがないことを自ら暴露しているようなものだ。

 

キリギリスがアリに救ってもらうための口実として、「差別」という言葉が使われる。

だから、「努力できるのも才能」「すべては運」「生存者バイアス」という言葉が多用される。

結局、リソースの差やスタートラインの違いはどうしようもない。

だからこそ、税率で後から調整すればいいだけの話だ。

 

民度の高い環境を求めて動く自由もあるし、民度の低い場所に留まる自由もある。

民度の低さを受け入れているのであれば、わざわざ差別用語だと騒ぐ必要はない。

差別用語だと強く主張するということは、相対的に下に位置していると自ら認めているようなものでもある。

民度の低い場所にいても幸せであれば、民度という言葉に過剰に反応する理由はない。

不満があり、余裕がないからこそ、民度というキーワードに敏感に反応する。

そして、そこから脱出できない現実があるから、より強く主張する。

 

どうしようもない理不尽を経験してきた私からすれば、最大限努力しても脱出できない状況であれば、多少の理解や同意はできる。

しかし、文句を言い続けても何も変わらないし、誰も助けに来ない。

それらを理解した上で、現状への不満や余裕のなさを周囲にぶつけ、敬遠されるリスクを取るのか。

それとも、自分自身を改造し、民度の高い場所へ移動するのか。

選択肢は、その二つしかない。

 

ネガティブな発信をするか、沈黙を選ぶか。

民度という言葉を使うか、使わないか。

どちらを選んでも、批判する人間は必ず存在する。

だからこそ、他人の評価ではなく、自分が壊れずに生きられる選択をするしかない。

民度とは、他人を貶める言葉ではなく、人生で誰と関わり、どこに身を置くかを決めるための現実的な指標である。

それを理解したうえで環境を選ぶことこそが、最も静かで、最も合理的な生存戦略なのだ。

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