どうも、太陽です。
ジェンダー不平等を「理解している」「問題だと認識している」にもかかわらず、積極的な関与や発言を避け、距離を取る、あるいは沈黙するという選択は、倫理的にどのように評価されるべきなのか。
この問いは、単なる賛成・反対の二項対立では整理できない複雑な問題を孕んでいる。
Gravityの議論ルームでこのテーマが提示されたとき、議論が白熱したのは、ジェンダー問題が個人の価値観、社会制度、経済構造、想像力、当事者意識、さらには損得勘定までを含む多層的な問題だからである。
沈黙はフェミニズムへの敵対なのか、それとも単なる非参加なのか
いわゆる男女平等という「機会(チャンス)」の獲得をめぐる議論において、距離を取る、沈黙するという態度は、フェミニストの立場から見れば、敵対的、あるいは少なくとも支援にはならない態度とみなされがちである。
積極的に参加せず、意見も表明しないという選択は、結果として現状を変えない方向に力を与える。
すなわち、現状維持派、つまり男女不平等を事実上肯定する立場に位置づけられる。
しかし一方で、勤労の義務や納税の義務のように、制度として強制力があり、社会全体で履行が前提とされている義務とは異なり、男女平等は「義務」として社会規範に完全に組み込まれているとは言い難い。
男女雇用機会均等法の存在や、大学における女性寮の設置など、一定の制度的配慮は存在するものの、それらは限定的であり、社会全体に強制される義務とはなっていない。
資本主義社会における合理性という視点
この社会が資本主義であり、企業が利益や利潤を最大化することを基本原理としている以上、もし女性社員を積極的に雇用することが企業成果の向上につながるのであれば、企業は自然とそうした選択を取るはずである。
実際に女性社員が増加している分野や企業が存在するならば、それは「女性を雇うほうが合理的だ」という判断が働いている可能性もある。
そうだとすれば、現在進行している方向性をそのまま続ければよく、あえて外部から強い倫理的圧力をかける必要はない、という見方も成立する。
理系分野・学問分野における男女差の構造
現実には、理系分野における女子比率は依然として低く、大学や学問の世界でも男女の人数差が存在し、社会全体でも男性社員比率が高い、いわゆる男性優位社会が形成されている。
このような構造の中で、女性が男性優位社会に参入すること自体が、心理的・社会的に高いハードルを伴う。
仮に「女性は理系的思考が弱い」「理系に向いていない」という本質的性質が存在しないのであれば、問題は能力ではなく、すでに形成された男性優位構造を突破するためのコストが高すぎるため、女性が敬遠している、という仮説も成り立つ。
この構造を変えるためには、個人の努力ではなく、企業側や公務員制度など、上部構造からの変化が必要であり、その結果として下部構造である教育や進路選択において、いわゆるリケジョが増えていく可能性がある。
全体最適化という「大義名分」の不確実性
仮に女性の社会進出が進むことで、社会全体の利得が増え、全体最適化が達成されるのであれば、それは非常に強い大義名分となる。
その場合、ジェンダー不平等に反対しない人や沈黙する人に対して、「全体の利益を阻害している」という強い反論が可能になる。
しかし、女性の社会進出が本当に全体最適化につながるのかについては、現時点では確定的な結論は出ていない。
単純に善悪や正義で割り切れる問題ではなく、マクロレベルでの影響は依然として未知数である。
倫理判断における距離・想像力・当事者意識
この問題は、外国の児童労働者を強制労働させている企業の商品を消費するかどうか、という問いに似ている。
遠い国の出来事であっても、その子どもに対する想像力が働き、さらに個人的なつながりや当事者意識があれば、消費を拒否する行動を取る可能性が高まる。
一方で、当事者意識が弱く、距離が遠い場合、人は倫理的に問題があると理解していても、行動を変えないことが多い。
さらに、自身の経済状況や精神的余裕が乏しい場合、代替手段が高価であったり存在しなければ、「分かっていても消費する」という選択を取ることも十分にあり得る。
つまり、ジェンダー不平等を含む多くの社会問題は、法的義務ではなく、個人の想像力と当事者意識、そして余裕の有無に委ねられている。
いじめ問題とのアナロジー
いじめ問題において、沈黙や見て見ぬふりをする行為は、結果としていじめを肯定する行為に近い。
しかし、助けることで自分や家族が被害を受ける可能性があるなど、沈黙を選ばざるを得ない事情も存在する。
多くの場合、いじめ被害者は弱い存在と見なされ、助けても自分の利益にならず、むしろコストが高いと判断される。
仮に被害者に将来大きな潜在能力があると見抜ければ、純粋な正義感ではなく損得勘定から助ける選択もあり得る。
結果として、見て見ぬふりをした人は、その瞬間の損得で行動したにすぎず、被害者の側から見れば、いじめ加害者ほどではないにせよ、間接的な共犯者として記憶される。
ジェンダー問題における沈黙の特殊性
ただし、ジェンダー不平等は、いじめのような個人的被害が直接絡む問題とは異なり、社会問題である。
そのため、沈黙や距離を取ったからといって、個人的に恨まれる可能性は比較的低い。
仮に将来、男女平等が全体最適化につながり、社会が実際に良くなったとしても、過去に距離を取っていた人が「恩恵にタダ乗りしている」と強く非難されることはほとんどない。
たとえ科学的な分析によって男女平等が全体最適化につながると証明された後であっても、それが法的義務でない限り、沈黙した個人の責任が強く追及されることはない。
女性の社会進出と独身率・少子化の可能性
女性の社会進出の象徴として、女医の独身率が約36%と高いことが挙げられる。
経済的に自立しているため、男性を無理に必要とせず、「良い人がいれば」という選択が可能になっている。
これを極端な例とせず、より現実的なシミュレーションとして、女性が男性の年収中央値である約430万〜450万円程度を達成した場合を考える。
この水準でも女性は経済的自立を達成しており、結婚は「生活のため」ではなく、「本当に好きかどうか」に基づく選択となる。
その結果、独身率が上昇する可能性が高く、少子化が加速するのか、あるいはシングルマザーという形で子育てが進むのかは不透明である。
この点においても、女性の社会進出がマクロ的に全体最適化になるかどうかは、依然として不明である。
終わりに
ジェンダー不平等を認識しながら距離を取るという選択は、倫理的には「現状維持を結果的に肯定する立場」と評価されうる一方で、法的義務ではなく、個人の想像力、当事者意識、余裕、そして合理的損得判断に委ねられた選択でもある。
この曖昧さこそが、ジェンダー問題を単純な正義論や敵味方の構図に回収できない理由であり、沈黙が常に悪とも、常に正当とも言い切れない現実を示している。
男女平等が全体最適化につながるのかという問いが未解決である以上、距離を取る選択は倫理的に批判され得るが、決定的に断罪されるものでもない。
その宙づりの状態こそが、現代社会におけるジェンダー問題の本質なのかもしれない。
リライトする前の文章
ジェンダー不平等を認識しながら距離を取る選択は、倫理的にどのように評価されるべきか、というGravity議論ルームがあり、白熱しました。
いわゆる男女平等という機会(チャンス)を捨て去る方向性であり、フェミニストに対しては敵のような存在というか、沈黙(積極的に参加も意見もしない)という選択はフェミニスト支援にならず、現状維持派(男女不平等)を肯定することになります。
しかし、勤労の義務や納税の義務などと違い(システム的にも職場が用意されたり、税金徴収システムがある)、男女平等の義務とまでは規範として根付いておらず、男女雇用機会均等法や東大に女性寮を作るなど限定的な支援にしかなっていないようです。
ですが、この資本主義は利益・利潤を追求する社会ですから、本当に企業が女性社員を雇うことで成果が上がるなら積極的に雇用するはずで、女性社員が増えている方向性だとしたら、このままの路線・方向性を続ければいいことになります。
男女比率において理系は女子がかなり低く、大学や学問においても男女差の人数の差があり、さらに社会においても男性社員比率が高い男性優位社会があるとしたら、そういう男性優位社会に女性が乗り込むのはハードルが上がります。
女は理系的思考が弱い・理系に向いていないという性質がないのであれば、すでに社会に存在している男性優位社会があり、それを突破するコストが高いから、敬遠している説も出てきます。
この構造をなくすには、企業側・公務員などの政府側から変える必要があり、その流れの下部構造でリケジョも増えてくるかもしれません。
話を戻しますが、女性の社会進出が進んだほうが全体最適化(全体の利得が増える)になるのであれば、大きな大義名分ができたことになり、ジェンダー不平等に反対したり、沈黙する人への強い反論になりますが、果たしてそう簡単にいくのか、がまだ不明です。
違う話になりますが、外国の児童労働者などを強制労働させている会社の飲食物を飲むか?という質問があるとして、遠い距離の人への想像力が働き、さらにその外国の子どもの知り合いがいるなど当事者意識もあるのなら、身近な問題に感じ、飲まない!という行動をとるでしょう。
もしくは遠い距離の人への想像力は働きつつ、その外国の子供の知り合いがいない場合、人間としての倫理的な正義感から飲まない!という行動をとっていることになります。
また、個人の経済や精神状況の余裕度にも左右され、自分が貧乏だったり、追い詰められていた場合、その飲食物が本当に好きで手放せないほどで、代替物がないか高すぎた場合、飲んでしまうでしょう。
つまり、距離感や想像力や当事者意識の問題であり、それがないとジェンダー不平等の問題も含め、積極的に解決していこうという気になりません。
ほとんどの諸問題は義務というほど課せられているものではなく(一方、法律になっている場合は強制力が働く)、それぞれの個人の判断次第になっています。
様々な人の権利や人権は過去の人の積み重ねで作られてきましたが、それらを踏みにじる勢力(企業や国家や警察含める)は依然存在します。
ところで、男女平等の話にすると、女医の独身率は36%と高く(男性を無理して必要としなくなる。良い男性がいたら、ぐらいの感覚。自立している)、女医が女性の社会的進出の頂点の象徴だとしたら、女性が社会進出するにつれ、女性の独身率は上がりそうですが、これは極端な例であり、リアルシュミレーションをするとしたら、男性の中央値の年収(430万円〜450万円程度)に近い年収を女性が達成したら、どうなるかでしょう。
この場合、女性は女医ほどは高年収じゃないですが、経済的自立は達成できており、男に頼らなくても生きていける状態であり、結婚については本当に好きな人と結婚する形となり、やはり同じように独身率は上がりそうです。
今までは女性の年収が低かったから、男に経済的に頼らざるを得ない層がかなりいて、既婚率をあげていた側面があると思うからです。(一部はかつては専業主婦化していた)
独身率が上がるとなれば、少子化が加速するかもしれないし、もしくはシングルマザーとして子育てをする可能性もあり、どちらに転ぶかはわかりません。
女性の社会進出が全体最適化になるのかはまだ不明です。(あくまでマクロの話です)
世の中の法となっていない義務について積極的に対処し、取り組むかは想像力と当事者意識が鍵になり、また、例えばいじめ問題で沈黙(見てみぬふり)をした場合、それはいじめ現状肯定に近い行動になりますが、何らかの事情(積極的にいじめ解決行動を起こした場合、自分や身内も巻き込まれ、損害を受けるなど)があり、沈黙をせざるを得ない事情もありそうです。
もしくは、いじめ被害者は基本的に弱い立場・存在であり、助けても自分の利益にならないし、逆にいじめ加害者に睨まれたり、いじめ被害者を助けるメリットといじめ加害者に睨まれるコストを天秤にかけたとき、後者を選択いたからこそ、いじめを見てみぬフリをしたことになります。
要は仮にいじめ被害者がめちゃくちゃ潜在能力があり、強者に将来なる可能性があって、それを見抜ける人がいたら、いじめ被害者を助けることが恩を与えることですから、純粋な正義感じゃなくても損得から助けたかもしれません。
つまり、いじめ被害者は基本的に弱い存在という共通認識があり、わざわざ多大なコストをかけて助けるメリットがないのです。
とはいえ、いじめ被害者としては見てみぬふりをされたという状況だけが残されており、いじめ加害者が一番悪いのは確かですが、いじめ見てみぬふり勢は正義感もなく、別にいじめ被害者をそこまでして助けるメリットも感じておらず、潜在能力もないとみなしているわけであり、後で見返して成長した暁にはいじめ見てみぬふり勢などどうでもいい存在だし、一種の共犯者です。
不利なときや悪いときでも残ってくれたり、応援してくれた人に対しては恩を返したい欲求が人にはありますし、そのときにその人が自分をどう見ているかの本性が現れますし、逆に、良いときには誰でも勝ち戦に乗れ!みたいに群がってくるわけで、良いときに群がる人は本性が見えず、本当の味方かは不明なのです。
だから、いじめ被害者のときに見てみぬフリをした人はそれが本性なわけで、悪い状況のときに助けもしなかったし、放置され、いじめ加害者を間接的に肯定していたわけで、そういう連中と積極的に関わる理由はありません。
話が飛びましたが、ジェンダーの話に戻すと、ジェンダー不平等を認識しながら距離を取る選択は、倫理的にどのように評価されるべきかという問題だと、距離を取る選択は、フェミニストへの敵という存在という立ち位置であり、現状肯定派(男女平等)になるわけですが、男女問題はいじめ問題と違って、個人的な問題は絡んでおらず、社会問題なので、距離を取る選択(沈黙)をしたからといって、誰かに恨まれることは少ないでしょう。
男女平等が全体最適化に仮につながるとして、その方向性に進み、現実に社会がよくなっても、そのときに距離を取る選択をした人が「だから言ったじゃないか!今さら、男女平等の恩恵にタダ乗りするなよ!」とは別に言われません。
そもそも、男女平等が本当に全体最適化につながるかは未知数であり、全体最適化になると科学的な判定や予測がなされ、それを大々的に発表した後でも、距離を取る選択をしたなら、故意の割合が高くなりますが、それでも法になっていない問題なので、責任は強く追及されません。
あとは男女平等が当たり前というリベラルの発想が本当か?も検討すべき問題です。
生物学的男女差は確実にあり、男女それぞれで適材適所があり、向いている役割があるだろうに、それを歪めて男女平等にするというのは非効率になるのではないか、という見立てもあります。
例えば、理系や仕事に向いている(狩り)という男が女性の生物学的な特権の出産を行い、女も働くということで、男もその間、育休を3年間強制にするのなら、男の戦力が3年間削がれることになります。
女が男以上の働き・活躍を見せて、働いて埋め合わせするのであれば問題ないでしょうが、傾向として男のほうが仕事や狩りに向いている気がして仕方ありません。
または、男女平等を本当に実現するなら、制度上のほとんどでそう実現すべきですが、意識の面では結局は男女差は残ります。
例えば、おごり奢られ論争でも、男女平等なら割り勘が当たり前であるべきですが、男が女を獲得する、求愛するという文脈が残り、男が奢る側になりがちです。
男が奢るべきが6割以上はありそうですし(3、4割しか割り勘派がいない)、そうじゃなくても本当に好きな女性になら奢るのがかっこいいし、そして本命と見られて奢られる女も素晴らしい、という文脈が多く、これは男女平等じゃありません。
過去の因習が残っており、その文脈で、賢い男は本命にだけ奢る行為をし、その他の本命じゃない、脈もない女には割り勘を貫き、出会いの数を増やしつつ、出費を減らします。(女としてはタダ飯にありつけるのがありがたく、「なぜ奢ってくれれないの?」と文句を言います)
おごり奢られ論争に限らず、古い男女の因習は残っており、制度しての男女平等は増やしても結局は男に不利な因習が残るなら、女性だけ有利な社会になります。
男女平等が全体最適化につながるのか、という検証がされているのか不明ですし、建前として美しいから無思考で推進している気がします。
立ち止まる視点すらありません。
僕が男女平等って本当にすべきなの?という根本に疑問を抱いたら、それは全面否定され、疑うことすら許されない空気が漂います。
だから、僕は男女平等が全体最適化になると仮にしたら、推進してもいいと思うし、また、男女平等の方向に既に進んでいて、資本主義社会では本当に女性社員が有能なら企業が積極的に雇うから、それでいいのでは?と言ったのです。
(これはマクロな全体視点と傾向の話をしており、一部の超有能女性やミクロの話はしていません。ミクロを持ち出して、全体を語る人が多すぎるのです)