どうも、太陽です。
犯罪を犯したクリエイターの作品を消費することは倫理的に問題があるのか。
このテーマは、現代の文化や倫理を考えるうえで非常に複雑な問題であり、しばしば議論が白熱する。
実際、SNSなどでもこの問題は繰り返し議論され、結論が出ないまま堂々巡りになることが多い。
議論が噛み合わなくなる理由の一つは、人々が「同じ問題を見ているようで、実は異なる前提から話している」からである。
ある人は社会全体の規範や普遍的なルールという視点から語り、別の人は個人の感覚や具体的なケースという視点から語る。
この視点の違いを理解しないまま議論を続けると、互いの言葉がすれ違い、議論は平行線のまま終わる。
ここでは、犯罪を犯したクリエイターとその作品をめぐる問題を、具体例を交えながら整理してみたい。
まず、この問題は大きく二つに分けて考えることができる。
一つは「犯罪を犯したクリエイター本人の問題」であり、もう一つは「そのクリエイターが作った作品の問題」である。
たとえば、覚醒剤事件で逮捕された歌手・作曲家の 槇原敬之 が作詞・作曲した楽曲「世界に一つだけの花」を聴くことは倫理的に問題があるのか、という問いが典型例である。
槇原敬之は覚醒剤取締法違反により、懲役2年・執行猶予3年の有罪判決を受けた。
2020年8月に執行猶予付き判決を受けて活動を休止し、その後2021年9月6日に「私には音楽しかない」という言葉とともに活動再開を発表した。
さらに2024年6月には約5年ぶりのテレビ出演も果たしている。
この経緯を見ると、音楽業界にはある種の「禊期間」が存在するようにも見える。
覚醒剤犯罪の場合、その期間はおおよそ4年前後であると感じる人もいる。
一方で、芸能界にはより長い禊の例もある。
たとえば、お笑いコンビ極楽とんぼの 山本圭壱 は2006年に未成年者との淫行騒動を起こし、当時所属していた 吉本興業 から契約解除され、芸能活動停止となった。
その後、約10年間の活動休止を経て、2016年に復帰している。
この例を見ると、未成年が関係する性犯罪では、社会的な禊期間は10年程度であったとも解釈できる。
しかし、ここで重要なのは、こうした「禊のルール」は芸能界という特殊な世界の論理であるという点である。
芸能人はスポンサー企業やテレビ局といった大きな組織と関わりながら活動しており、企業イメージを守るための制裁や活動停止が発生する。
しかし、YouTubeなどの個人メディアの世界では事情が異なる。
個人で活動しているクリエイターであれば、スポンサーの顔色をうかがう必要がなく、ファンが支持し続ける限り活動を続けることができる。
さらに言えば、一般社会では前科があっても多くの場合は周囲に知られずに生活することが可能であり、職業制限など一定の制裁はあるものの、芸能界ほどの社会的制裁は存在しない。
つまり、芸能界、YouTubeのような個人クリエイターの世界、そして一般社会では、求められる責任や制裁のあり方が大きく異なるのである。
次に問題になるのが、「犯罪を犯した人物が、道徳的なメッセージを持つ作品を発表する資格があるのか」という点である。
覚醒剤を使用した人物が「世界に一つだけの花」のような愛や多様性を歌う作品を作ることは、矛盾しているのではないか、という疑問を抱く人もいる。
しかし一方で、「作者の人格と作品は別である」という考え方もある。
芸能界では昔から「女遊びは芸の肥やし」という言葉があり、芸人やミュージシャンの破天荒な生き方が創作の源になると考えられてきた。
不倫などのスキャンダルも、ある種の「芸人の修行」として扱われる時代もあった。
また、人は現実の人間関係と、遠い存在としての芸能人を区別して考える傾向がある。
もし身近な人間が覚醒剤を使用していたら、多くの人は危険人物として距離を置くだろう。
しかし、テレビや音楽の世界の遠い存在であれば、直接的な害がない限り、作品だけを楽しむことができると考える人もいる。
つまり、倫理判断は「距離感」によって大きく変わる。
さらに、社会的影響という観点からの議論もある。
芸能人やクリエイターは文化の担い手であり、社会にメッセージを発信する存在である。
もし覚醒剤を使用したアーティストが短期間で復帰できるなら、「憧れのアーティストがやっているなら自分もやってみよう」と影響を受ける人が出る可能性もある。
このため、社会的影響を考慮して一定の禊や制裁が必要だと考える人もいる。
同様の議論は、不倫問題などでも起こる。
芸能人の不倫を安易に許容すれば、ファンに誤ったメッセージを送るのではないかという意見である。
しかし同時に、それは本来、芸能人本人と配偶者の問題であり、ファンとの関係の問題でもある。
そこに直接関係のない第三者が強く介入することへの違和感を感じる人もいる。
そもそも芸能界という世界は、一般社会とは異なる性質を持つ。
多くの芸術家やミュージシャンは、社会の枠からはみ出した人物であり、体制への批判や独特の生き方を表現する人々でもある。
いわゆる「ロック」と呼ばれる文化には、社会規範への反抗や挑戦という要素が含まれている。
そのため、極端な例としては、絶対的な悪とされる行為ですら「ロックな挑戦」として語られる可能性があるという主張も存在する。
もちろんそれが正しいとは限らないが、歴史の中では、当初は社会から強く批判された思想や行動が、後になって再評価される例も存在する。
しかし、ここには大きな問題がある。
それは「被害者」の存在である。
たとえば、もしあるクリエイターがあなた自身に対して犯罪行為を行い、その後に素晴らしい作品を残したとしたらどうだろうか。
社会に価値をもたらしたからといって、その人物を許すことができるだろうか。
多くの人は「ふざけるな」と感じるだろう。
しかし、自分が直接の被害者ではなく、遠い場所で起きた出来事であれば、その作品を評価することができる人もいる。
つまり、この問題は「自分ごとか、他人事か」という距離によって判断が変わる。
芸術的な挑戦や表現の自由が認められるとしても、犯罪によって被害者を生み出すことが正当化されるわけではない。
もし創作活動の過程で犯罪を行い、被害者を増やすのであれば、それを「ロック」だと呼ぶことには強い違和感がある。
もちろん、社会の進歩の過程では一定のリスクが伴うこともある。
たとえば自動運転技術の開発では、完成までの過程で事故が起きる可能性がある。
しかし、それが許容されるのは事故の確率が極めて低く、社会全体の利益が期待されるからである。
この視点から見ると、槇原敬之の覚醒剤使用は、直接的な被害者がいる犯罪ではなく、社会的影響も限定的であると考える人もいる。
自分や身内が被害を受けたわけでもなく、また彼の音楽が覚醒剤使用を促すほどの社会的影響力を持っていたかどうかも疑問である。
それでもなお、社会的制裁として約4年の禊期間が必要だったというわけである。
このような議論が堂々巡りになる理由は、議論の前提が異なるからである。
ある人は「社会全体の規範」という普遍的な物差しで問題を語る。
つまり、社会としてどのような基準を持つべきかという視点である。
一方で別の人は、「個人の判断」という視点で語る。
つまり、自分にとって問題があるかどうかというミクロな視点である。
社会のマクロな視点から見れば、文化的影響を考慮したルールや制裁が必要になる。
しかし、個人のミクロな視点では、作品を楽しむかどうかは個人の自由であり、ケースバイケースになる。
この二つの視点を混同すると、議論は永遠に噛み合わない。
さらに言えば、そもそも社会における「普遍的な真理」というもの自体が疑わしいという考え方もある。
科学でさえ、すべての理論は仮説であり、反証可能性を前提としている。
統計的な傾向は存在しても、例外や外れ値は必ず存在する。
そのため、社会における倫理や価値観も、完全な普遍性を持つものではなく、状況や時代によって変化する可能性がある。
私自身の立場としては、絶対的な普遍性は存在しないと考えている。
しかしそれでも、人々が普遍性を探求する議論ゲームに参加し、より妥当な結論を探すことには意味があるとも思う。
社会や集団という規模で語るべき問題もあれば、個別具体的なケースで考えるべき問題もある。
そのどちらが正しいというわけではなく、状況によって使い分けるべきだろう。
そして何より重要なのは、意見の違いがそのまま人格否定につながるわけではないということである。
価値観や物事の捉え方が違っても、それは単なる視点の違いであり、すぐに敵対関係になる必要はない。
議論の中で互いの立場を理解し、ある程度の擦り寄せや共存を見つけることも可能である。
むしろ、意見の違いだけで相手を否定し、敵とみなしてしまう態度こそ、最も安直な反応なのかもしれない。
犯罪を犯したクリエイターの作品をどう扱うべきかという問題には、単純な正解は存在しない。
社会全体の規範というマクロの視点と、個人の感覚というミクロの視点、その両方を行き来しながら考えるしかない。
そして、最も重要なのは、議論の前提が異なることを理解することである。
普遍的な社会ルールを求める立場と、個人の判断を尊重する立場は、必ずしも同じ土俵で議論しているわけではない。
この構造を理解するだけでも、堂々巡りの議論は少しだけ整理されるはずである。
そしてその先に、異なる価値観を持つ人同士でも、完全な対立ではなく共存の余地が見えてくるのではないだろうか。
リライト前の文章。
犯罪を犯したクリエイターの作品を消費することは倫理的に問題があるか?というテーマでGravityで議論が白熱していました。
犯罪を犯したクリエイター自身の問題と、クリエイターが作った作品問題があります。
例えば、覚醒剤で逮捕された「世界で一つだけの花」を作詞・作曲した槇原敬之氏の曲を聴くことは倫理的に問題があるか?問題があります。
懲役2年、執行猶予3年の有罪判決が出ましたが、根強い復活の声を求めるファンがいる一方、厳しい世間の目もあります。
2020年8月に執行猶予付きの判決を受け活動を休止。
その後、2021年9月6日に自身の公式サイトで、「私には音楽しかない」という強い気持ちから活動再開を発表しました。
2024年6月末に5年ぶりのテレビ出演(『久保みねヒャダこじらせライブ』)を果たしました。
このことから音楽業界では一定期間の禊があると思われます。(覚醒剤の犯罪による禊は約4年ぐらいでしょうか)
極楽とんぼの山本圭壱は2006年7月、未成年者に対する淫行騒動を起こしました。
これにより、当時の所属事務所であった吉本興業から専属契約を解除(事実上の解雇)され、芸能活動停止処分を受けました。
10年間の活動休止・謹慎期間を経た後、2016年11月に吉本興業へ復帰しました。
未成年による性犯罪の禊期間は10年だったようです。
事務所があったり、地上波で活躍する芸能界であればスポンサー向けの顔や芸能界の禊のルールがあり、干すことがあります。
しかし、YouTubeで個人でやっている分にはファンがついているのであればそんなものはないでしょう。
さらに、無名の一般人であれば、禊などなく、仮に前科がついたとしても隠せることが多いし、前科で就けない職業もあり、制限がありますが、それくらいの制裁です。
つまり、芸能界、YouTubeなどの世界、一般人という区分けで求められる対応や制裁が変わります。
あとは、覚醒剤を打った槇原敬之氏に「世界に一つだけの花」のような愛?のような訴えかけを言える立場にあるか問題があります。
作者本人の人格と作品は別であり、また、女遊びは芸の肥やしという言葉もあるように、芸人であれば不倫などの不祥事も修行の一つという過去もありました。
そもそも、身内に覚醒剤を打つ人や前科持ちがいたら、危険人物として接したくないという人が多いですが、映像の遠い世界の人なら覚醒剤を打とうが前科持ちだろうが、直接的な害はなく、良い作品を楽しめれば良しと区別できる人もいます。
あとは社会的問題として、覚醒剤を打ったアーティストに心酔し、約4年の禊が終われば復帰できる程度であれば自分も憧れるアーティストのように真似て打つという人が現れてもほんの一部だし、自己責任な気がしますが、もっと広範囲に影響されて真似すると主張する人もいます。
芸能人などは文化の担い手であり、社会や文化に影響を与え、形作っていく立場だとしたら、覚醒剤を打つことは社会に悪影響のメッセージを与えるので、一定の禊や歯止めが必要という意見もわかります。
不倫についても例えばこれを安易に許容して、芸能人の不倫ニュースが多発してそれを許容したら、少なくともファンに間違ったメッセージを送ると思いますが、それは不倫した芸能人と奥さんの問題、さらにファンとの問題ですが、関係ない第三者が紛れ込んできます。
そもそも、芸能人は浮世離れした職業であり、変人が集う場所であり、だからこそロックであり、体制に批判的だったり、何らかの生き様があるからやっている人もいます。
そして、絶対的な悪と思われる殺人やレイプなども、もしかしたらロックの挑戦である可能性もあり、それの証明や正しさは後出しジャンケンで証明されることもあり、一時的には絶対的な悪と思われがちですが、あとで覆る可能性も残ります。(あくまで可能性の話です)
障害者を多数殺した植松聖死刑囚も現場で得た思想があり、賛否両論分かれ、映像化されています。
植松聖死刑囚の主張は「生産性のない障害者は不幸をまき散らす存在であり、安楽死させるべきだ」という、ナチスの優生思想に通じるもので、障害者の「価値」を経済的効率性や生産性で判断し、国家の負担を減らすために殺害を正当化するというものでした。
彼は裁判でもこの主張を一貫させ、精神疾患や大麻の影響による心神喪失を主張する弁護側とは異なり、自らの行動は責任能力があり、動機を社会に伝えるためだと述べました。
獄中結婚した翼さんという女性もいましたが、死刑囚に賛同したため、バッシングを受けていますし、離婚騒動もありました。
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/85d3aed2cac9a404906ae8bf34452f6607d9e8c5
獄中結婚した植松聖死刑囚の「離婚」騒動と、妻・翼さんへの思わぬバッシング
そもそもロックな行為(表現の自由が前提)が許されているとすれば、人類になにか貢献する価値のあることを残すかもしれない外れ値の人に対してであり、それは前もってわかることではないし、後出しジャンケンで証明されることです。
そして、被害者がいる場合、それについてどう捉えるのか問題があります。
例えば、ある犯罪行為(プライバシー侵害など人権侵害)をあなたにしたクリエイターがいて、作品として残したとしましょう。
それをロックな活動で世の中に価値をもたらしたとして、あなたは許容しますか?
個人的にはふざけんな!でしょうが、世間の役にたち、貢献しているから良しと自己犠牲できますか?
これは自分が犠牲になっていない場合なら、そういうクリエイターがいて、平然と素晴らしい作品だと受け入れられる人もいるでしょう。
つまり、自分ごとや身内にいるかどうか、もしくは他人事や遠い関係性が薄い人かによって捉え方が変わります。
ロックな活動をするにせよ、犯罪被害者はなるべく少ないほうがよいわけですし、そもそも正当防衛などで仕方なく作品や活動をするならばまだわかりますが、積極的に犯罪を犯し、被害者を生み、クリエイティブな作品を作りに行くのがロックとは思えません。
まぁ自動運転車は完成するまで一時的に被害者を生むでしょうが、これは被害に遭う確率が相当に低いからこそ、まだ許容している国があります。
この視点で捉えると、覚醒剤を打った槇原敬之は僕が被害を被ったわけでもなく、身内でもなく、遠い人ですし、そもそも社会的にそんなに影響を与える立場かや(たかがエンタメの楽曲で覚醒剤を打つほど心酔し、魅了される?)、世の中の規範・シンボルとしてもそこまで機能していたかや(真似する人いる?そもそもこんなことで真似するほうが悪くない?)、社会に反抗して価値を生み出すロックな活動でもなく、それでも禊として約4年の歳月が復帰に必要だったのです。
ある議論ルームで何回も似たような理由で会話が噛み合わないで、堂々巡りになる理由がようやくわかった。
一方は普遍性がある、社会という集団の物差しで話しており、もう一方は普遍性などない、社会だけでなく個人も含めて往来して話している、という構図。
特に、普遍性があり、少しずつ合意したり、正当性や妥当性を探っていけばどんどん進化していけるという発想は、そもそも科学はすべては仮説であり、反証可能性があり、統計的有意はあるが傾向に過ぎず、例外・外れ値は存在したうえで、何らかのポジション含め主張するとは相容れない。
社会や集団のマクロと個人のミクロに関しては、ミクロ(個別具体例)のエピソードや法則に飛んでも話がつながるが、どちらかといえば社会や集団の話の比重がでかい。
そもそも社会とは何を指しているのか、よくわからないこともある。
僕の立場としては普遍性はないと思っているが、それでも普遍性追求ゲームに参加して真理らしきものを探すのもありかもね、ぐらいのスタンス。
社会や集団という規模感での意見の追求に関してはそれで適用し、述べられる意見もあるけど個別具体例で話したほうがいい場合もあり、ケースバイケース。
また、理想論やあるべき姿を説く側と、ただ現実はこうなっているよという現実認識として示す側で相違がある。
あと、意見で割れたからといって、その人の人格否定とは結びつかない。物事への捉え方や価値観が異なっていたからといって、完全に物別れになるわけでもなく、擦り寄せはある程度は可能。
意見や価値観の相違ですぐに物別れ・敵というのは安直。