どうも、太陽です。
「嘘をつかない教育は、社会に出たときに子どもを不利にしないのか?」
この問いが、あるGravityルームで議論されていた。
一見すると、社会は嘘や演技に満ちており、正直さは損をする美徳のようにも見える。
しかし本当にそうなのか。この議論では、嘘をめぐる心理的コスト、社会的信用、人生設計、そして人間の認知的限界まで含めた、かなり本質的な論点が浮かび上がっていた。
本稿では、その議論内容を踏まえつつ、論理的な整合性を保ったまま、できるだけわかりやすく整理していく。
この議論における主な論点は、大きく分けて二つある。
一つ目は、嘘をつくことによって生じる罪悪感が、人生そのものを消耗させるという点。
二つ目は、嘘をつき続けることは高いコストを伴い、論理的整合性が崩れ、信用を失い、最終的には破綻に至るという点である。
まず前提として、人は社会人になれば、多かれ少なかれ職業上の「仮面」をかぶり、演技をして生きている。
本音や本当に言いたいことを封印し、顧客や同僚と接することは、ごく当たり前の社会的行動である。
仕事を終え、プライベートに戻ったとき、ようやく仮面を脱ぎ、本音や自然体で人と接することができる。
しかし、家族を持つと、そこにも「父親」「母親」という仮面が生まれる場合がある。
社会人としての仮面と社会的責任。
親としての仮面と親としての責任。
これらが重なったとき、人は強い息苦しさを感じることがある。
究極的に仮面をかぶる職業を挙げるなら、芸能人やYouTuberのように、表に出て発信する職業だろう。
彼らは「キャラ」を演じ、それが受け入れられることで人気を得る。
整形が多いのも、それが商品としての価値を高める行為だからである。
つまり、「演じる」という行為は本質的に嘘を含んでおり、それを長期間続けることは精神的に非常にしんどい。
職業上必要な演技であれば、ある程度は罪悪感が薄れるが、問題は別のところにある。
それは、自分の実力や能力以上に魅力を嵩上げし、それをパフォーマンスとして見せることで成果を上げてしまった場合である。
このとき、人はインポスター症候群に陥ることがある。
インポスター症候群とは、本当の自分以上に能力や実力があるかのように周囲をだましているのではないか、という感覚に苦しむ状態を指す。
実際には優秀であっても、自分自身を認めることができず、常に不安を抱え続ける。
これに対し、罪悪感や良心が傷まないのがサイコパスである。
サイコパスは、むしろ積極的に嘘をつき、能力以上の自分をアピールし、それによって成果を上げる。
仮に「嘘をつかないほうがいい」という教育があるとすれば、それは演技という意味での嘘や、社会的潤滑油としての嘘を否定するものではない。
しかし、周囲を失望させ、信用を落とす嘘に旨味を感じるようになると、その時点で人生は確実に不利になる。
次に、「嘘をつき続けることはコストがかかり、論理的整合性が取れなくなり、信用されなくなり、破綻する」という論点について考える。
ここでは、表に出ている人間と、そうでない一般人とで、状況が大きく異なる。
例えば、ひろゆきは自ら記憶力がかなり悪く、細かいことをいちいち覚えていないと語っている。
一方で、切り取りや拡散が日常的に行われ、影響力も大きいため、嘘をつけば即座に信用を落とす立場にある。
仮に、嘘の割合が7割を超えるような嘘つき常習犯であれば、何を言っても信用されなくなる。
それを避けるため、彼は記憶に頼るのではなく、論理力によって回答し、発信することで、自分の主張の一貫性を保っている。
嘘をつくという行為は、それ自体が大きな認知コストを伴う。
嘘をすべて記憶し、矛盾なく維持できなければ、完全犯罪にはならない。
中・長期的に見れば、誰かが必ず気づき、指摘し、嘘は露見する。
特に表に出ている人間ほど、週刊誌を含め、追及する存在が多く、嘘はバレやすい。
一方で、表に出ていない一般人の場合、そこまで執拗に嘘を暴く存在はいない。
しかし、それでも嘘の割合が7割を超えれば、露見する確率は確実に上がる。
まともな人ほど信用しなくなり、距離を取る。
結果として、嘘を見破れない能力の低い人間か、似たような嘘つき常習犯だけに囲まれる人生になる。
演技性人格障害のように、パフォーマンスやハッタリを多用する人間は、やがてその違和感に周囲が気づき、離れていく。
嘘つき常習犯はオオカミ少年のような存在になり、「またか」と受け取られる。
それに対して、正直不動産のような現行一致型の人間は、「こいつならやる」と見られる。
どちらが生きやすいかといえば、明らかに後者である。
言葉に重みが生まれ、ハッタリだと思われず、交渉も有利になる。
この意味で、嘘をつかない教育は、子どもを不利にするどころか、有利にする側面も多い。
ただし、あまりに正直すぎると、悪意ある人間に利用され、身ぐるみ剥がされる危険もある。
どの情報を発信するか、どこまで開示するかの選別は不可欠である。
政治家は、もはや息を吸うように嘘をつく職業だと認識されており、社会的信用は低い。
ハッタリや誇張がデフォルトになれば、オオカミ少年と同じ見られ方になる。
結局のところ、人間は多少ぼんりしていても構わないので、自分が目指す人生像や人間像を持つことが重要だと思う。
なぜなら、人はその像に沿って行動し、結果的にその方向へ人生が動いていくからである。
僕自身は、能力を身につけることを最重要視している。
そのため、行動のほとんどが能力構築につながるものになっている。
一方で、若い女性が「いい女になりたい」という目標を持てば、その目標に沿った行動を取るようになり、結果として異性にモテる。
若いうちに「いい女」を目指すと、おじさんウケは良くなる。
「いい女」という概念には、同性ウケも含まれるかもしれない。
もし目標が「日本一の起業家」であれば、そこに到達するためにがむしゃらに努力する。
しかし、到達した瞬間に目標喪失が起こり、新たな目標が必要になる。
また、「日本一の起業家」という称号そのものが目的になると、そのためにズルや過剰なパフォーマンスをしてもよい、という思考に陥りやすい。
それがかえって信頼を落とす可能性もある。
これは、数字やノルマを達成するためにズルをする構図とよく似ている。
能力構築を目標にすると、自分が満足する水準の能力やパフォーマンスに到達しない限り、努力は終わらない。
能力が目的である以上、見せかけのズルをしても意味がない。
結果として、能力は安定性につながり、そこにお金や信頼が後からついてくる可能性がある。
嘘をつくという行為は、能力構築とは正反対の方向に進む。
嘘を積み重ねた人生の果てに待つのは、虚しさかもしれない。
それは、ハリボテと虚飾に満ちた人生である。
ただし、能力構築を目標にすることにも、思わぬ弊害がある。
それが「限界を超える」という問題である。
世界は複雑系である一方で、ハードウェアには制約がある。
コンピュータにせよ人間にせよ、ハードウェアの限界は避けられない。
ソフトウェア、すなわち情報やアルゴリズムは、最終的にハードウェアの制約問題に突き当たる。
人間の身体や脳にも限界がある。
複雑系の世界で、ソフトウェアを過剰に強化しすぎると、脳はオーバーヒートする。
身体や脳が悲鳴を上げ、休養を必要とする。
コンピュータやAIはハードウェアを積み上げることができるが、人間はそうではない。
脳の可塑性があるとはいえ、無限に拡張できるわけではない。
人間が複雑系に適応し、予測や行動を最適化しようとすれば、まずあらゆるバイアスを取り除く必要がある。
しかし、それは人間の本能や性質と矛盾しており、極めて疲労の大きい行為である。
バイアスを完全に排除できれば、人間の予測力は限りなく高まり、AIに近づくだろう。
しかし、それはもはや人間とは思えない所業でもある。
だからこそ、身体や脳というハードウェアの制約問題が必ず生じる。
統合失調症も、ある種、脳の限界を超えて無理をしすぎた人の末路なのかもしれない。
過剰に複雑な思考と行動を続けた結果、ドーパミンなどの脳内ホルモンが過剰に分泌され、バランスが崩れてしまった状態である。
https://twitter.com/i/trending/2014755343365001428
「生成AI」を毎日使う人ほど心が疲れている可能性を示唆する論文 調査ではChatGPTなど生成AIを「毎日」使っている人は、使っていない人に比べて、うつ症状を持つリスクが高くなる傾向がみられ、特に仕事や勉強ではなく「個人的な用途」で使っている人、25〜64歳の働き盛りでこの傾向が顕著であった。
「AIがうつを引き起こす」のか、それとも「悩みや孤独があるからAIに話し相手を求めている」のか、因果関係はまだ不明だが、デジタル空間への過度な没入には注意が必要なようだ。
というポストもある。
嘘をつかない教育は、単純な道徳論ではなく、人生を長期的に安定させるための戦略でもある。
演技と欺瞞を区別し、能力構築を軸に生き、人間としての限界を理解すること。
そのバランスを取れるかどうかが、結局のところ「生きやすさ」を左右するのだと思う。